都合何度目の渡米であろう。
この段階で既にもう、鶴見の海外渡航回数は二十に迫る勢だった。それは確かだ。
が、その旅程のことごとくに「アメリカ」が含まれていたわけではない。欧州の天地に限局された場合もあれば、まるきり別な方向の南溟一帯を渡り歩いたこともある。
正確な数字はわからない。
はっきり断言できるのは、「初訪問時」のことである。明治四十四年九月、新渡戸稲造の秘書として、カーネギー平和財団の招聘に随行したのが鶴見にとって生涯初の、アメリカの土に足を下ろした瞬間だった。
それから、早や十六年。
鶴見もすっかり旅慣れた。遠い異境の地だろうと、四方三里のいずこにも日本語が飛び交っていなくとも、もはや欠片も動揺しない。縮こまることなく、かといって過剰に胸を張るでもなしに、自然と雑踏に混ざってゆける。
折りしも当時合衆国は、リンドバーグに沸いていた。
チャールズ・リンドバーグ。
昭和二年――西暦1927年5月21日まで、彼は全然無名の一青年に過ぎなかった。セントルイスの片田舎で郵便飛行機を操るだけが能という、どこにでもいる二十五歳の男であった。
それがこの日を境目に、たった一夜で英雄に化けた。人類史上初めての、大西洋単独無着陸飛行に成功したのだ。
三十三時間半をかけ、ニューヨークからフランス・パリまで。リンドバーグが飛行しきったと知ったとき、アメリカ人は発狂した。狂ったとしかいいようがないほど、彼らの歓喜は空前絶後のものだった。
…往くところ、往くところ、この若人の噂で持ちきりで、少なからず当てられ気味だった。当てられたといふのは、米国人がまるで曠世の偉人でも発見したやうに威張るからだ。
「どうだ君、リンディ(リンドバーグを略して、親しみのこゝろを含めて米国人はさう言ってゐた)には感服したらう? どうだい?」
とこれだ。
私は当時大して、この青年が大西洋を飛び越したといふことに胆をつぶしてはゐなかったので、あまり感服した顔もしなかったのが、少なからず米国人を不満にしたらしい。実際米国では、此リンディを国祖ワシントン以来の人物のやうに崇拝してゐたのだ。(昭和五年発行『自由人の旅日記』34~35頁)
ヴェルサイユ会議前のウィルソン人気を知る鶴見をしてさえ、これほど圧倒的な感情の渦は見たことがない。
いったい何がそれほどまでに、彼らの魂を揺り動かすのか? 俄然興味をそそられた。
国民感情を急騰させる点穴が合衆国にもあるというなら、きっと今が千載一遇の好機会、ぜひともそれを鷲掴みにしておかなくば――。
そう頓悟して、執った手段が如何にも鶴見祐輔らしい。
堂々と正面から訊いたのである。
「リンドバーグのいったいどこがそんなにエライのですか」
と。
遭遇する米国人に片っ端から――それこそ実業家に始まって、学者、評論家、劇作家、新聞記者、露天商、家庭の主婦にタイピスト、挙句の果てには街頭の少年に至るまで――訊いて訊いて訊きまくってのけたのである。
(鶴見祐輔)
大抵がこの問い自体を侮辱と感じ、真っ赤になって食ってかかった。
それも含めて、鶴見の狙いだったのだろう。怒らせて本音を引き出そうという魂胆だ。
人の悪いやり口であり、この点は鶴見自身も認めている。
が、そもそもからして政治家なぞは、善人にはとても続けられない、悪人でなくば賄いきれぬ仕事でないか。
そういう意味では鶴見は確かに資質があった。
やがて、回答を得た。
「アメリカのエレミア」と形容されたジャーナリズム界の巨人、マーク・サリヴァンがこの
「今日我々は、この尨然たるアメリカのうちに精神的中心を見失った。民衆の指導者を見失った。ルーズヴェルトが死んだ。ウィルソンが死んだ。それから後は凡人ばかりの世の中だ。成程我々は富んだ。我々の国は強くなった。自動車は走り、映画は変る。しかしどこに、米国々民の心臓を同じ鼓動で波打たす精神的中心があるか。茫々たる四十八州を見渡して、誰一人として一億二千万人の人々の眼を
民衆政治は指導者を求める。餓ゑ焦れたる如く指導者を待ちのぞむ。この指導者は、何か超凡のところがなくてはいけない。今日の米国人は、ハーディングからクーリッジにかけての平凡政治に飽き飽きしてゐた。その無意識な民衆的欲求の渦巻きの中へ、ひょっこり舞込んで来たのが、この少年リンドバーグだ。
ね、時代が彼を要求し、待望してゐたのだよ」(37~38頁)
「国民の心臓を同じ鼓動で波打たす精神的中心」とは、なんと卓抜な表現だろう。
十数年後、フランクリン・ルーズベルトが
「独裁者を亡ぼすためには、独裁者を必要とする」
と白昼公然獅子吼したとき、大衆は鼻白むどころか割れんばかりの喝采を送った
民本主義の概念を日本社会に啓蒙し、大正デモクラシーの先駈けとなった茅原華山が、やがて英雄的独裁主義に傾いていったように。
結局人間は英雄が好きだし、社会もまたそれを必要とするわけだ。
憧れがあり、求められている以上、それが発生する余地は常にどこかに存在している。
実に結構なことではないか。
我々の生活に於て、冒険的精神の占むる位置の如何に重要なるかを、我々は往々にして忘れがちである。誰でも少年以来、空中を翔ぶ夢を見ないものゝないやうに、我々は平凡な日常生活から掛け離れた壮快なことをやって見たいといふ心を多分に持ってゐる。たださういふ壮快なことには危険が伴ふから、用心深い人は、まあまあと思ひ諦めてゐるわけであるが、誰か他の人が思ひ切ってそれをやってのけると、我々は思はず、掌を拍いて快哉を叫ぶのだ。
その冒険的情操といふものがあればこそ、人間の社会は今日まで進歩してきたのだ、石橋を叩いて渡る人ばかりであったら、我々は依然として穴の中に住んで、木の根を齧って暮してゐたかも知れない。(43頁)
鶴見祐輔はこの翌年、すなわち昭和三年に『英雄待望論』を世に著して、たちまち五十万部を売り上げるベストセラーとなっている。
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