穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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金さえあれば ―過去と未来を貫く悩み―

 

 暗涙にむせばずにはいられなかった。


 私の手元に、『知らねばならぬ 今日の重要知識』という本がある。


 志賀哲郎なる人物が、昭和八年、世に著した、まあ平たく言えば百科事典だ。


 法律・政治・外交・経済・国防・思想・社会運動。大別して以上七つの視点から、当時の世相を撫で切りにしてのけている。その舌鋒の鋭さは、

 


 今日の戦争は、精神よりも武器である。優秀な武器の前には大和魂も木ッ端微塵である。爆弾三勇士の勇気を称へるのはよい。だが、優秀な武器があったなら、彼の勇士をむざむざ犠牲にせずに済んだらう。(718頁)

 


 この一文からでも十二分に察せよう。

 

 

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 著者の本業は法学士という。


 なるほど実にそれらしい、渇いた理性の積み重ねによる判断である。


 この種の手合いの書きもの・・・・は、端的にいって快い。1300ページ超のぶ厚さが、しかしまったく苦にならず、最後まで至大の興味を持続したまま読み切れた。


 で、気付いたことが一つある。


 本書を通して、ある特定のフレーズが繰り返し語られている事実に、だ。


 細部の表現を変えつつも、大本の意味は揺るがない。要所要所で顔を出しては読者の脳裏に色濃く己を焼き付かせてゆく。現代文の試験みたいな言い方をすれば、「作者が本当に伝えたいこと」に相当しよう。


 それはなにか。


 日本国には金がないということである。

 


 我が日本にも勿論よい兵器はある。九〇式の野砲や、九二式戦闘機等は世界に誇ってもよいだらうが、一般的にいって、非常な見劣りがする。外国人は我が軍隊を見て「古風な兵隊さん」といってゐる。その武器も古風なら、その編成法も古風である。併しそれは凡て予算がないから思ふやうに出来ないのである。(中略)小銃も古過ぎる。機関銃も自慢にならない。のみならず、戦車はわづかしかない。我が国みたいな少い国が何処にあるだらうか。ロシアは五百台持ってゐる。アメリカは千台持ってゐる。イタリーだって百二十台ある、だのに我が国は僅かに練習用を加へて四十台しかない。何といふことだ。装甲自動車もこれと同様である。(718~719頁)

 

 

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(鉄条網を突破する戦車の絵)

 


 さても赤裸々な記述であった。


 具体的な数字については「軍機」として伏されることが多いのに、よく一文字の検閲も受けずに済んだと感心する。

 


 文化は機械が造り出すものである。機械器具の精巧なものが出来れば、文化は自ら進む。我が国は文化に於て何劣る所がないやうに、機械器具の製造にも何一つ欠くる所がないかのやうである。併し我が機械器具製造工業で、世界に誇り得るもの、海外へ大いに輸出してゐるものに何があるだらう。殆どないと云っても過言ではない。これは何のためであるか? 我が国民の頭脳や技術が到底外国人に及ばないのであるか? 否、それは断じて否と云へる。見よ、造船術は緻密なる頭脳と優秀なる技術を必要とするが、我が国では明治維新以来大いに研究した結果、今日では一切国産であり、フランスから巡洋艦の注文を取ったりしてゐるではないか。この一事を以ってしても、国家的見地から費用を惜しまずに研究して行ったならば、遠からぬ将来に於て、どんな精巧なものでも製作し得るに至るだらう。ただ遺憾なことには、その研究費がないのである。(1026~1027頁)

 


 大観するに、以上二箇所がとりわけ顕著で「具体例」には丁度いい。

 

 

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 金がない。


 金がない。


 金がないのだ。


 金がなくて、文化もヘチマもあるものか。


 現在過去未来を通して変わらぬ、万古不易の世知辛さであったろう。


 英国が産業革命に成功したのも、むろんワットの天才もさることながら、それにも況してインド亜大陸を搾りに搾ったことにより、国内に山と積み上げられた財富あればこそではないか。


 してみると、真の産業革命の立役者とは、ロバート・クライヴウォーレン・ヘースティングズ、及び彼らの意を受けてベンガル一帯を荒らしまくった名も無き数多の略奪者との見方も成り立つ。


 鶴見祐輔の言葉を借りれば、

 

 
 クライヴがプラッシーの戦勝を博したのは一七五七年で、その後両三年の間に、ベンガル掠奪の財宝が倫敦に到着した。
 英国の産業革命は一七六〇年に始まる、とはすべての学者の一致するところである。
 ゆえに中世英国を近代英国に変革したこの産業革命は、ベンガルの財宝の刺戟であったことは争ふことはできない。何となれば産業革命とは、手工業が機械工業に変じた結果起った経済上の変化であって、機械工業が起ったのは、当時の発明を実施し得た資本のお蔭であったからである。(昭和十年、鶴見祐輔著『膨張の日本』231頁)

 


 およそこんな調子であった。

 

 

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北米大陸横断飛行に臨まんとする鶴見祐輔

 


 まこと現世は黄金万能。金さえあれば大抵のことはどうにでもなる。


 それを俗だと、濁世の極みと責めて嘆いて叫んだところで徒労にしかなり得まい。


 受け入れることだ。


 受け入れて、なんのいずれはこの俺の手で、天下の財をこぞってやらアと腕まくりして勇んだ方が――たとえ空元気であるにせよ――まだしも健康的である。


 そういえば杉村楚人冠パリオリンピック終了間際――すなわち大正十三年七月二十一日付けの新聞で、

 


 オリンピックの不成績を見て選手を咎むるほど酷なるはなし。スポーツを理解するものゝ少ない日本全国民の罪だ。分ったか。分ったら、もっと金を出せ。

 


 と吼えていた。


 メダル獲得者がレスリングフリースタイルフェザー級・内藤克俊の「銅」一枚きりとあってはこう言いたくもなるだろう。


 ああ、それにつけても金の欲しさよ

 

 

 

 

 

 
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