石原忍が御手洗文雄を「忘れ難き人」として、鐵門倶楽部の同窓中でも一種格別な地位に置き、満腔の敬意を表したのは、彼が「大利根遠漕歌」の作者だったからではない。
「春は春は」に開始する、競漕界の愛唱歌より。
重視したのは、彼の死に様こそだった。
明治四十三年に学窓を巣立った御手洗は、しかしそれから僅か六年、大正五年の秋の最中に病に倒れ、ついぞ回復の兆しなく、帰らぬ人となっている。
病名すなわち、コレラであった。
泉橋病院の外科に於いて勤務中、担ぎ込まれた病名未定の遺体に対し検死解剖を施した際、
病の進行、よほど早く、また重く。一個のポンプと化したが如く、体内にある水分という水分を、
覚悟して、そこからが尋常の所業ではない。「君は病床にあって苦しい内に筆を執り、その病状の刻々の経過を極めて詳細に記録した」。
本邦医学の発展に、せめて少しでも資するよう。
正真正銘最後の気力を振り絞り、自分にできる精一杯をやったのだ。
愈々死期が近づいて最早書き続ける気力のなくなった時、徐に先輩同僚知友に対する感謝の辞を述べ、最後に「秋浅く染めかねて散る楓かな」の一句を遺して従容として死についた。まったく学に忠なるの一念以外何物もない純真なるその態度は、当時人口に膾炙せられた佐久間潜水艇長がその艇の沈没に際して遺した体験記にも劣らざる壮烈なる最後であった。(『学窓余談』33頁)
普通、人間というものは、死に近づくほど理性が
よほど修養を積んだつもりでも、いざ命が脅かされる場に出てみると、途端に胃の腑がでんぐり返り、むざんなまでに「自分」が崩れる。
このあたりの呼吸というか反応を、厭というほど理解していた者の一人にダイヤモンド社創業の雄・石山賢吉の顔がある。この事業家は多病な
以下はその、一点景といっていい。――腹部にできた腫物をとるため、全身麻酔を伴う手術を明日に控えた夜のことだ。
どうも寝入る気になれず、視線を所在なく彷徨わせるうち、にわかに恐怖が湧いてきた。
麻酔をかけられ、そのまま目が覚めなかったらどうしようと思ったのである。
ごく稀にだが、そういう体質があるらしい。アレルギーと言うべきか。もしも自分が運悪く、その
石山賢吉の面白さは、ここで本当に遺書の文面を考えだしたことである。
第一に、頭へ浮ぶのは、社の事である。それから家族の事である。其の外、一寸頭へ来ない。
何時も経験する事だが、病気になると、思索の範囲が狭くなる。経済界がどうの、内閣がどうの……と云ふ事は、余り頭へ来ない。殊に、熱が高くなったり、痛みが増したりすると、一層其の傾向が甚だしくなる。思索の範囲は、死後の一点に局限される。(昭和十二年発行『事業と其人の型』185頁)
と、不安が頂点に達したところで石山の思考回路は再度転換。電撃的に唐突に、恩師の最期を脳裡によみがえらせている。
我が師伊藤欽亮先生は、死ぬまで財界の前途を憂へた。私達が見舞に行くと、きまって、
「経済界は?」
と、肯くのであった。幾度行っても、同じ問ひをする。何も問はなくなった時は、意識不明に陥った時であった。先生は如何ほど病気が重くなっても、経済界に対する憂ひを捨てなかった。流石に先生だと、其の時しみじみ感じた。(185~186頁)
それに引き換え、今の己の姿ときたらどうだろう。尻尾に火のついた独楽鼠みたく、ただいたずらに動揺している。
未熟も未熟、合わせる顔がないではないか――。
恥の心が、石山をいくらか冷静にした。
手本に恵まれるということは、とりもなおさず幸福なことだ。
なお、翌日の手術は医師の練熟した腕もあり、無事成功裡に済んでいる。
あまりに恙なく運んだために、特に書くこともないほどだ。
ダイヤモンド社からは昭和四年と五年にかけて、『伊藤欽亮論集』が、上下巻構成で
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