穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

日本人と禁酒法 ―「高貴な実験」を眺めた人々―


 禁酒論者の言辞はまさに「画餅」の標本そのものである。


 一九二〇年一月十七日、合衆国にて「十八番目の改正」が効力を発揮するより以前。清教徒的潔癖さから酔いを齎す飲料を憎み、その廃絶を念願し、日夜運動に余念のなかった人々は、酒がどれほど心と体を痛めつける毒物か、懇々と説く一方で、酒なき社会がどのような変化を遂げるのか、未来予測の宣伝にも力瘤を入れていた。

 

 

National Prohibition Convention 1892

Wikipediaより、禁酒党の全国大会)

 


 曰く、「労働者が酒と絶縁することで、工場の能率は大いに上向き、米国の繁栄は更にスピードを増すだろう。しかのみならずその賃金を酒場で消費つかわず、家に持って帰るゆえ、家庭内不和は解消されて妻子の健康状態も改善されることになる」


 曰く、「酒が身近にあるうちは、自然これを呑むことが国民の習慣になりがちなのが、酒がまったく手に入らないとなると、次代を担う青少年に飲酒の習慣が根付かなく、あたら道を間違わずに済む。そうして酒のために失われる時間が減れば、犯罪率も下落の一途をたどりゆく」


 曰く何、曰く何――希望的観測と呼ぶことさえおこがましい、ようかんのハチミツ漬けみたような、こんな甘い見通しをよくまあ正気で発表できたものである。


 政権交代直前に民主党がバラ撒いた「地上の楽園」方式のグロテスクな広告や、小池百合子が得意顔でぶち上げた「七つのゼロ」を彷彿とする地にあしうらのつかなさだ。


 端的に、胸焼けせずにはいられない。

 

 

The Drunkard's Progress - Color

Wikipediaより、「大酒飲みの進歩」)

 


 果たして禁酒論者ら自身、どこまで本気でのたまっていたか不明だが。――いずれにせよ彼らの掲げた華美なる夢は、現実の巨腕に一撃されて跡形もなく消し飛んだ。消し飛び、潰えたということを、昭和五年の段階で既に、住江金之が闡明している。

 

 単なる嗜好のみならず、文化としての酒の価値を大いに認めるこの人は、その著書である『酒』の中にて、上に掲げた禁酒論者の綱領を虱潰しに潰すという、おそるべき試みを実現させた。


 青少年への影響は、

 


 禁酒前迄は学生仲間でも今日程酒が流行らなかったが、禁酒後は酒瓶を持ってあるくとか、飲むとかいふのが豪傑らしいといふわけで、却て流行となった。昨年ニューヨーク・ヘラルド新聞社で、全国のハイスクールの学生に就て調査したところでは、全く飲まない学生は僅かに一パーセントに過ぎなかった。(463頁)

 


 風紀もなにもありゃしない。

 

 禁止されると魅力が増すのは古今東西共通か。

 

 

 


 家庭への影響に関しては、まずフィリピンの主要紙たるマニラ・ブレティンに掲載された、

 


 ――禁酒が行われてから、男は家庭に於いて新しい居場所を占めるようになったと禁酒論者が主張するが、それはたぶん地下室のことだろう。

 


 とのあてこすり――地下室は密造に格好の場所――を皮切りに、更に続けて、

 


 密造流行になってから、子供婦人等の飲酒が殖えた事は一寸面白い現象である。今迄は酒場で飲んで居たのが、自宅で醸造する様になってから、味を試す為に、お前も飲んで見ろ、お前もといふ様なわけで、女子供みんな飲む様になった。(466~467頁)

 


 身も蓋もない現実を暴露している。


 ほかにも警察が押収した酒をこっそり裏で売っているとか、国境の外、カナダから、延々二十マイルに亘って続く密輸パイプが見つかったとか、メチルの混入まじった粗悪な密造ウイスキーを売り捌いた廉により、三十一社が起訴されて百五十六名の逮捕者が出たとか、にわかには信じられないような、驚愕の内容が重なってゆく。

 

 

(木材の輸送に偽装した酒の密輸)

 


宗教的倫理的動機から出発する立法といふものが、大凡如何なる結果を社会に及ぼすかといふ一個の生きたる教訓として、米国の禁酒法は永久に社会問題研究者の振り返るべき史実である。ほぼ同時期に、鶴見祐輔も言っていた。

 

 妥当な評価であったろう。


 アメリカ人にはどういうわけか、みずから進んで暗黒時代を製造したがる癖がある。宿痾の類だ。ここ二・三年のあいだにも、ちらほらそんな兆候が見え隠れしてはいないだろうか。


 アメリカのやることだから、向こうで流行っているからと盲目的に追随するのは非常に危うい。精査が要るのだ、当然ながら。

 

 

5 Prohibition Disposal(9)

Wikipediaより、禁酒法時代、下水道に廃棄される密造酒)

 


 アメリカといふ国は、不思議な国である。「とてつもなく莫迦らしい国だ」と思ふ事さへある。そして、日本がこの莫迦らしい国の一層莫迦らしい猿にまで進化するであらうといふのが、悲しいかな、今や私の確信とならうとしつつある。

 


 これは生田春月の言葉。


 そういえば彼の父親は酒造りが生業だった。腕前は見るべきものがあったが、いかんせん、経営面で失敗し、惨憺たる貧窮の中で悶死した。

 

 

失敗商人の子で
失敗詩人

 


 と、それを自嘲した詩もある。

 

 

 

 

 


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