その出来事を、理化学研究所員・辻二郎工学博士は、明らかに不快な記憶として扱っている。
とある実業家との会話の席で、
「どうせ研究をするならば役にも立たぬ道楽勉強でなく、工業上実際有益な研究をやったらどうだ」(『科学随筆 線』18頁)
と面と向かって言われたことを、だ。
(Wikipediaより、辻二郎)
似たような空気は太平洋を挟んだアメリカに於いても充満していたものと見え、ビューロー・オブ・スタンダード――後にアメリカ国立標準技術研究所へと繋がる機関――が世間から、「金貨を空中に投げすてる機関」と皮肉を浴びせられている有り様を、続いて辻は報告している。
彼が本書に寄せた小稿の題は『科学と理解』。なるほど確かに、テーマに沿った実例を引っ張ってきたものである。
多くの学生が「こんなことを勉強して、将来社会に出たときに、いったい何の役に立つ」と愚痴るように、とかく実用性に重きを置いてかまびすしいのが現代心理の特徴であろう。
が、辻二郎に言わせれば、実用性など端から思慮の外に置き、社会にとって益かどうかも見当のつかぬ研究に、自分一個の好奇心のみをよすがとして狂ったように取り組む輩がいなければ、科学の発展など到底望めるものではないのだ。
というより、自己の研究が社会にどんな影響を与えるかなど、科学者が考慮すべき問題ではない。
それは為政者の仕事だと、綺麗さっぱり割り切っているような雰囲気がこの人物からは伝わってくる。
今後如何に防遏しても科学は遠慮なしに進歩するであらう。此の結果をして人類の幸福側にのみ働かせる事は科学者の仕事ではないので、政治家や経綸家に一段と奮発して貰ふ事を希望するのである。(23頁)
こうした主張は科学者側からの独りよがりでは決してなく、例えば文筆家の長與善郎なども、酷似したことを書いている。
日本の大学や、いろいろの研究室の中には、自分自身の得には固より一文の足しにもならず、国家のためにすらそれが直ちにどう実用の役に立つかといふことも問はず、ひたすら研究それ自身の目的と、その自然の興味とに没頭し、一病原体の研究のためには死をも賭してゐるといふ真摯な学究者がいかにザラにゐるか。そしてそれは独り学問上ばかりのことでないのだ。
さういふ利己と功利を超越した態度の勤勉家が国民の何パーセントでもゐるといふ一事が、即ち日本の発展の基礎的理由なのだ。(昭和十四年『人世観想』126頁)
さて、こうした一連の筆法を以ってするなら、慶応大学外科学教室初代教授・茂木蔵之助博士の如きは、正しく科学者として「模範的な」人物像を持っていたろう。
なにせこの人、外科手術により患者の身体から取り出した腫瘍、数多に及ぶそのいちいちを噛み比べ、味を確かめ論文に纏めることさえしている。
病の味覚診断という、新たな診察法を発見せんがためだった。
残念ながら彼の努力が実を結ぶことはなかったようだが、方向性は間違っていない。
好奇の狂熱に衝き動かされるまま倫理を乗り越え探究に耽るその態度、ビルゲンワースや医療教会の関係者が目にしたならば、心底嘉したことだろう。
ついでながら茂木蔵之助の友人で、腫瘍を嗜む彼に向かって、
「柘榴のやうな味はせなんだかい?」(『老医の繰言』101頁)
無遠慮にそう問うて見せたのが、これまで幾度となく触れてきた、渡辺房吉なる男。人肉は柘榴のように酸っぱいという俗説を、この機に確かめたかったらしい。
これに対して茂木博士は、「癌腫はしぎしぎするとか、肉腫はざくざくするとか云って居った(同上)」が、肝心の味については適当にぼかし、要領を得ない曖昧なことしか答えなかったそうである。
かつての大日本帝国にも、高啓蒙な方々というのが居たものだ。
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