「医者こそは誰にもまして『科学する心』を持たねばならぬ」
そう自戒しつつも、ついついゲンを担いでしまう。
出勤途中、妙にうるさくカラスが啼くと、
――さてこそ、あの患者が死んだかな。
不吉な予感が頭を擡げ、そのあたりが沼に
(アウグスト・フリードリヒ・シェンク 「苦悩」)
むろん、これらの現象に因果関係がないことは重々承知。
承知してなお、論理で感情を統御しきれぬ未熟さが、宇佐美洋医学博士にも存在していた。
彼が勤める医院には、「反射鏡が割れると患者が死ぬ」とのジンクスが、まことしやかに囁かれていたそうである。
白衣の胸ポケットに反射鏡を入れてゐるのを忘れて、下に落ちたものを拾はうとした瞬間ガチャッ! とコンクリートの床の上に落ちて割れることがしばしばある。これが、重症の患者の入院してゐる時割れやうものなら、実にゾーッとする。それは勿論偶然であらうし、勿論根拠もないことだが、時々当ることがある。
「五病棟の子供が死んだ? 何時? 二三日前迄交換室へ来てゐたぢゃないか」
「昨日ね。急に死んでしまったんだ」
「気の毒になあ。君の反射鏡が割れたからな」
反射鏡は割れないやうに大切にして置く。(『耳と鼻』110頁)
(Wikipediaより、一般的な額帯鏡)
反射鏡に限らず、「落ちる」というのは縁起が悪い。
手術の準備段階として手指の入念な消毒がある。時代柄、宇佐美医師は固形石鹸とブラシで以ってこれを行っていたのだが、時につるんと手が滑り、ブラシか石鹸か、あるいはその両方がすっぽ抜け、床に落ちてしまう場合があった。
(畜生。……)
これが起きると、手術の結果も芳しくない。神経のどこかに無用な緊張が潜在していて、それが意図せぬ強張りを生むのだ。多年の経験から、彼はそのように洞察していた。
よって、対策もむろん確立済みだ。冷水で何度も顔を洗い、しかる後に背筋を伸ばして瞑目し、合掌しながら深呼吸を繰り返す。修行僧を思わせる、この精神統一法を採り入れて以来、彼は失敗とは無縁でいられた。
ただ一つ、強いて難点を挙げるとすれば、看護婦が笑うことである。
瞑目してゐると、よく若い看護婦が背後で笑ってゐることがあるが、この際にはいくら笑はれても気にはならない。(112頁)
(池田牛歩「看護婦」)
由来、宇佐美医師の勤め先の看護婦は、どうも人の悪いのが寄り集まっていたらしく。
彼女らの無上の愉しみは、学校出たての新任医師を突っついて遊ぶことに他ならなかった。
たとえばこの新人君が何気なく、○号室の誰それに浣腸をしておけと命じたとする。
するとすかさず、得たりとばかりに混ぜっ返して、浣腸は何浣腸を致しましょう、はあグリセリンですか、グリセリンを何グラム差せばよろしいでしょう、ところでそのグリセリンはそのまま使って構いませんか、――といった具合に、本来わかり切っている事柄を根掘り葉掘り尋ねるのだから堪らない。
斯くも瑣末で区々たる仕掛けに、当意即妙で返しきれる新人君など滅多におらず。
「いつも君らがやってる通りにすればよいのだ」
と言い捨てたきり、いそいそと逃げ出すのが常だった。
で、その足で医局に駆け込み、同僚や先輩たちを相手に「模範解答」を求めるまでが定型である。
「おい君、グリセリン浣腸といふのは、グリセリンを其儘させばよいのだらう」
「さうかな、何か他に薬品を入れるのぢアないかな」
すると一人が笑ひ乍ら、
「はッはッ、君もやられたんだね。僕も今三病棟でやられて来たんだ。カンフル注射を命じた所が、『カンフル注射は何%のものを何瓦注射したらよいですか?』と反問するんだ。さあ、何%か講義で聞いたことのある様な気もするし、ない様な気もするしで困ってね、『いつもの通り、やって置け!』で逃げ出して来たんだ。あれは君、一体何%かね?」
「先生方は、又看護婦にやられて来たんだな。毎年新米さんは、必ず一度は洗礼を受けるんだ。妙に色男ぶって、ビクビクとして看護婦の御機嫌をとらうとするから、やられるんだよ。さう云ふ時には、『馬鹿‼ そんなことがわからんで、看護婦が勤まるか‼ わからなかったら婦長に聞いてやって居け』と睨みつけて堂々と出て来るんだ」(86~87頁)
戦前が如何に封建的で、女性に対し不遇・不自由を強いた社会か情熱的に語る手合いはまったく後を絶たないが、なかなかどうして、大人しく抑圧されているほど彼女たちは甘くない。
それこそ封建制度真っ盛りなる江戸時代から。大和撫子は、つくづく以って強かだ。
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