96000000000000000000000000%。
この数字が何を意味するかお分かりだろうか。
二次大戦終結後の、ハンガリー通貨「ペンゲー」のインフレ率である。
漢数字に直すと、九十六𥝱パーセント。
「京」の上の更に上、10の24乗を示す単位だ。
ハイパーインフレとしか言いようがない。
これはひとりハンガリーのみに限った現象ではなく、欧州諸国のほとんどが、戦後凄まじい物価騰貴に苦しめられた。
自国通貨の信用が、紙クズ以下に暴落した狂気の時代。そんな社会では勢い物々交換という最も原始的な商取引の形態が息を吹き返してくるのだが、それにしたって何か「基準」が必要となる。
価値の尺度として大多数が納得し得る、持ち運びが楽で、偽造しにくく、かつ相当数が担保されている何かが、だ。
そんな虫のいい注文に見事応えてのけたのが「煙草」であったと、『煙草礼賛』にて下田将美は書いている。
半月前の神田古本まつりで購入した本書から、そのあたりの記述を抄出すると、
ウィーンでは給仕人への心附けが標準的に巻煙草一本。新しいライカのカメラが煙草十二袋で買へる。
ローマでは巻煙草二本が普通の心附けの標準。闇の女は一晩が巻煙草十袋、当時の貨幣に換算すると巻煙草袋が一箱入りで二千リラ、米貨にして二十ドルに当るのださうである。ベルリンも同じでスキー靴一対が巻煙草袋一袋、旅行袋が十本で買へる、ドイツ人は米国の煙草を手に入れても吸はないで、物々交換にばかり使ふのだと云はれてゐた。パリでは巻煙草が一袋あると、パンならば二十ポンド、玉ねぎなら二ポンド、一九四〇年の赤の葡萄酒が一瓶、コニャックなら半瓶買へる。(6~7頁)
本書が刊行されたのは昭和二十二年九月のこと。終戦からわずか二年しか経ておらず、未だGHQの日本統治が強力だった頃であり、そんな時勢下にあってよくぞまあ、ここまで海外情報を収集できたものだと思わず感心したくなる。
著者の下田将美はかつての大阪毎日新聞常務。主筆、編集局次長、出版局長を兼任していた人物であり、敗戦と同時に辞任、公職追放。
直前の空襲で家も失っていたから、文字通り身一つで投げ出されたことになる。
潰滅的な敗北を喫し、史上初めて他国に支配されたことにより、既存のあらゆる価値観念がひっくり返って誰にも収拾不能となった、戦後まもなくのあの世間に、だ。
混沌の坩堝であったろう。
が、下田将美はへこたれなかった。
私は戦争も終りに近くなって罹災して家も家財も一切を焼かれてしまった。夜中に激しい爆撃の火中から身を以て逃れて、その夜明け、奇麗に焼けてしまったわが家の跡に立った時、何だか一切がうそのやうな気がした。びしょぬれになった洋服のポケットを探るとケースの中に煙草がまだ二三本残ってゐた。
私は心静かに一ぷく吸った。まだ火気の残ってゐる門前の石屑の上に立って、紫の煙をくゆらしながら焼けて坊主になった庭木を眺めてゐるうちに、何だかさっぱりした気持ちになって来た。過ぎたことは過ぎたことだ。新しい天が向ふにある。裸で出直すすがすがしさにこの一服の煙草のうまいことよと負惜しみでなく感じたのだった。私は今でもこの時の煙草の味を忘れない。(4頁)
事実、これが負け惜しみでないことを、下田は実績で以って証明してのけるのだ。
やがて日米通信取締役として復活すると、昭和二十五年には大有社を設立、社長に就任。一国一城の主にまで上りおおせているのである。
立ち昇る紫煙に導かれた軌跡であった。
昭和三十四年、六十八歳にして永眠。
ソビエト連邦の崩壊前後、赤ラベルのマルボロが通貨代わりに流通し、一箱出せばタクシーにも乗れ、トランク一杯に詰めたのならばハインドだって買えた。そう聞いたなら、この人は何と言ったろう。
さもありなんと、満足げに頷いたのではなかろうか。
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