※2022年4月より、ハーメルン様にも投稿させていただいております。
黒船来航から安政の大獄に至るまで、歴史の経過を指でなぞるようにたどってゆくと、つい直弼への同情心が押さえ難く湧いてくる。なるほどこれは、弾圧したくもなるわけだ、と。
それほどまでに京都に巣食う公卿衆と、彼らを使嗾し、煽動した志士どもは、無遠慮に幕府の神経を逆撫でし過ぎた。
関東と上方の意識の乖離、そして対立。これを説くに、発端をいったい何処に置くべきか。だいぶ悩んだが、ここはやはり、日米修好通商条約から始めるのが妥当だろう。
アメリカの東洋に於ける貿易権益確保のために、タウンゼント・ハリスが大統領の国書を携え、伊豆の下田にやって来たのは安政三年七月二十一日のことだった。
(Wikipediaより、タウンゼント・ハリス)
この訪問はマシュー・ペリーのそれと比べて、やや性質が異なっている。彼は下田駐箚の領事として着任するため万里の波濤を越えて来たのだ。つまりは腰を据える心算であり、条約さえ締結したなら速やかに水平線の向こう側へと去ってくれる、一過性の存在では決してない。
(当然のことだ)
みずからの立ち位置について、ハリスには欠片ほどの疑念もなかった。なんとなれば下田に領事を置くということは、先年締結された日米和親条約中にきちんと銘記された一項だからだ。
その11条にはこう書いてある。
此条約調印の日より18ヶ月経過の後は、何時たりとも合衆国政府は、下田駐箚の領事又は事務員を任命することを得。但し両政府の一方、上の処置を必要と認めたる場合に於てすべきものとす。
安政三年を西暦に直すと、1856年。
18ヶ月はとうに経過し、そして今、合衆国政府が公式に下田に於ける領事設置を必要とした。
ならばハリスは、そこに着任することができるのである。
(子供でもわかる理屈だ)
そう確信しきっていただけに、現実の幕府の対応は、ハリスをあまりに困惑させるものだった。
「冗談ではない」
というのである。
幕府側が認識していた11条の内容とは、「両国政府に於て、よんどころなき儀之あり候模様にて、合衆国官吏の者下田に差置候儀も之あるべく、尤も約束調印より十八ヶ月後にこれなくては其の儀に及ばず候事」。領事駐箚は米国側の一存で決定可能な話ではなく、幕府の同意あってのもので、勝手に「今日から俺が領事だ」と名乗られてもふざけるなとしか返しようがないであろう。
この喰い違いは和親条約交渉の際、幕府側が原文をまずオランダ語に翻訳し、それからまた和訳するという「二度手間」を踏んだのが主な理由であるとされ、とにかくハリスにしてみれば青天の霹靂もいいところだった。
下田奉行井上信濃守清直の名で抗議文が捻じ込まれたが、これで引き下がるような腰抜けならば、そもハリスは使節に任命されてなどいまい。彼はあくまで我が身の正当性を主張して、領事たるの扱いを強硬に求め、宿所として割り当てられた玉泉寺に星条旗を高く掲げた。
(なんとしてでも将軍に会い、国書を渡し、条約締結に漕ぎ付けてやる)
執念に眼をギラつかせていた甲斐あって、彼は間もなく説得に最適の材料を西方支那に見つけ出す。
折しもこの年の十月に、アロー戦争の火蓋が切られた。
詳しい経緯は省略するが、イギリス・フランス両国が連合して清国をぶん殴ったこの戦争。否が応にもアヘン戦争を彷彿とさせるこの事態に、日本人としては勢い敏感にならざるを得ない。
その恐怖感情を鋭く見抜いたハリスは、従来の強引な態度を一度引っ込め、心からの同情を顔に滲ませ語りはじめた。
イギリスという国の正体――連中が悪意の権化としかいいようのない集団であり、その貪婪な野心の赴くままに、地球の大地をどんなにか惨いやり方で強奪してきたかということを。
「清国に城下の盟を結ばせ次第、連合軍は余勢を駆って、直ちに貴国へ押し寄せてくることだろう。英国の要求は、誓って言うが、断じて米国の如く緩慢なものでは有り得ない。英国の態度は米国の如く温和なものでは決してない。余は日米両国が等しく利益を享けられる条約を提案している。英人来る前にこの条約に調印すれば、もしこれより先英人来ても、彼らに米国の要求よりも以上を望むことは許されなくなる。何故ならその時、米国は貴国を援けて英国に当たるを辞さないからだ。速やかに決断あった方が貴国の為である」
(Wikipediaより、アロー戦争)
幕府は最初、半信半疑の状態だった。こいつは
ところが明くる安政四年二月二日、長崎出島のオランダ商館長、ドンケル・クルティウスからの注進が届くや彼らの心は一気に「信」の側へと傾く。
数年前、ペリーの砲艦外国を予言して見事に的中させてのけたこの人物は、同じ筆で今回またもや警告したのだ。清国に城下の盟を誓わせ次第、英・仏連合軍は余勢を駆って必ず貴国に押し寄せるだろう、注意されたし、と。
米・蘭人の口吻は、奇しくも判で押したように一致した。
この当時、英国が諸外国にどんな印象を持たれていたかがよくわかる。
兎にも角にも、これで漸く幕閣の尻に火がついた。以下、略歴風に並べると、
同月二十四日、評定所一座の奉行、目付及び海防係、長崎、下田、函館の三湊奉行に対し、以後断然開国の方針を執るべき旨を通達。
四月十八日、堀田正睦筆をふるって開国の国是を定めねばならぬ理由を説明、方々の有志に向かって諒解を求め。
五月七日、中村時万を下田に派遣、ハリスと折衝。
そして同月二十六日、彼との間に全九ヶ条からなる日米追加条約を結び、以って長崎の交易を開き、下田、函館に米国人の居住を許した。
ハリスは、成功したといっていい。
(Wikipediaより、ハリス顕彰碑)
もはや彼が米国領事であることにケチをつける幕閣は――少なくとも表立っては――誰一人としていなかった。
だが、未だ江戸には入れず、大統領の国書も渡せていないままである。
(満足するには程遠い)
彼はあくまで、初志を貫徹する所存であった。
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