沖縄出身の歴史学者である著者は、昭和八年の一月から十二月にかけ、東京府在外研究員として南溟一帯を行脚した。帰国後日記や写真等を整理して、見聞きしたことどもを一冊の書にまとめ直した。それがすなわち、本書である。
行く先々の風景の中に琉球との共通点を――たとえば結髪の作法や建築様式、焼酎の醸し方といったような――探し求めているあたり、そのまま著者の愛郷心が窺い知れて趣深い。彼の死後、琉球新報によって「東恩納寛惇賞」が設けられたのも納得だろう。
故郷を愛し、また故郷に愛された人。なんとも羨ましい限りではないか。
そんな東恩納寛惇が、海路シンガポールに至ったときのことである。
港に入るや否や、あっという間に船は無数の独木舟に囲まれた。
乗っているのは、例外なくマレー人だ。皴の目立つ老人もいれば年端もいかない少年もいる。誰も彼もが千切れんばかりに手を振りながら、
「テンセンテンセン」
とわめく姿は、旅に不慣れな者が見たなら、すわ海賊の襲撃かと恐れをなしたことだろう。
幸いにして、この船の客はよく事情を知っていた。おもむろにポケットをまさぐって、五銭硬貨や十銭硬貨を取り出すと振りかぶって海へと投げる。
それらが上げた水しぶきを認めるや、マレー人たちは颯爽と小舟から飛び出し、潜水し、河童もかくやとばかりの見事な筋肉の躍動でたちまち硬貨を回収し、指先に挟んで高々と掲げ、はじけんばかりの笑顔を見せる。テンセンテンセンとは、「
もしくは「十セント」にも掛けさせて、日米両方の船客に意味が通じるようにしたのかもしれない。
極めて高度に近代化され、世界的な金融センターの地位を不動とし、「アジアで最も住みやすい都市」に幾度となく格付けされたこともある、現在のシンガポール共和国からはとても想像のつかない情景だろう。
まあ、それはいい。
そんなマレー人の集団中に、ひときわ目を引く者がいた。
手製の大きな葉巻を咥え、泰然とそれをふかしている男である。
彼もまた、近くに小銭が着水するや、それを追って海中に身を投じるのだが、あきれたことにその動作の最中も、一切葉巻を唇から離さない。
――なんという愚かさだ。
当然、ひとたまりもなく火は消えるだろう。海水をしとどに吸った葉巻では、再着火できるかどうかも怪しいものだ。
ほとんどの船客が、男の短慮を嘲笑った。ニコチンが脳にどのような悪影響を及ぼすか、君、あれは格好の見本だよ。……
ところがどっこい、再浮上した男の姿を一目見るなり、その表情は驚愕一色に塗り替えられることになる。
彼の咥えた葉巻の先には未だ赤々と火が燈り、紫煙を上げ続けているではないか。
この摩訶不思議な現象に、甲板はにわかに騒然となった。いったいどんなカラクリだ、もういっぺん見せてみろと小銭の雨が降り注ぐ。
瞬きをやめ、目を皿のようにして観察し、漸く東恩納にも謎が解けた。そのマレー人は飛び込む前の一刹那、素早く葉巻を逆に咥え直していたのである。
こうすれば火口は口腔中に隠されて、海水と接触せずに済む。一歩間違えれば舌や咽喉の粘膜に重大な火傷を負いかねないが、そこが
(独木舟のマレー人)
一連の記述に目を通すうち、私は思わずあっと声を上げかけた。
(憶えがある)
この話を聞くのは初めてではない。下田将美の『煙草礼賛』中にも確か、類似した
そう思って取り急ぎ「糟粕壺」と命名した例のバインダーを捲ってみると、はたせるかな。過去の私は、しっかりとその部分を書き写してくれていた。
マニラの本場フィリッピンも煙草好きの人には天国のやうな感がすることであるだろう。(中略)香りの高い煙の濃いマニラ葉がふんだんに得られる熱帯は愛煙者の天国でなければならない。
ここで面白いことは、ルソンの土人間に行はれている喫煙法で葉巻に火をつけると、其火をつけた方を口にもって行って煙を吸ふのである。これは英領インド人の中にもやってゐる者もある。一寸きくと火のついた方を吸ふのなどは、野蛮きはまるので、すぐに火傷でもしさうに考へられるが、一寸練習さへすればちっとも口を傷つけずにうまく吸へるもので、こうすれば煙草の味が非常によくなる斗りでなく、ニコチンの害が少いのだと云ふことである。(43~44頁)
ルソン、インド、そしてシンガポールにまで。
空条承太郎の隠し芸みたようなこの喫煙法は、南溟の人々の間にかなり広く行われていたようである。
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