明治四十四年発行、『日本周遊奇談』を読んでいる。
「妖怪博士」、井上円了の著した本だ。
東洋大学の前身に当たる「哲学館」を創設した男でもある。
本書は円了の口述を人をして筆記させたものだけあって、非常に平易で読みやすい。
現代文を読み進めるのとほとんど変わらぬ感覚で、ページを捲ることが出来るだろう。
さて、そんな『日本周遊奇談』の緒言に於いて、円了は斯くの如く述べている。
今後教育の普及と交通の開達とにより、全国の言語風俗習慣等の一定すべきは自然の勢なれば、此の如き笑話が五十年乃至百年後には或は世の考古の参照に資することなしとも計り難しとは余の空想する所なり、又演説講和に興味を添ふる一談柄となることなしといふべからず
そのような目論見と共に、円了は本書を世に送り出した。
明治二十三年から四十四年にかけて、のべ二十年三ヶ月に亘り日本全国を遊歴し、見聞した名所史跡風物習慣諸々の記憶を濃縮して詰め込んだ本書を、だ。
遠慮なく考古の興味の対象にさせてもらおう。
そうしてこそ、円了の意にも適うはずだ。
今となっては「自殺の名所」の印象がべったりこびりついて拭えなくなってしまった地名であるが、大島が
牧畜の盛んな、のどかな離島の風景が広がるだけだ。
伊豆大島の名物は戸々皆牛を
ちなみに『日本周遊奇談』の価格は七十銭。この一冊で、大島の牛乳が実に十八リットルも購える。
あんぱん一個が一銭、うどん・そばが一杯二銭だった時代だ。江戸時代に比べれば飛躍的にマシになっても、現代の目から眺めれば、本というのはまだまだ貴重だ。
ちなみに私はこの本を、神保町にて250円で購入した。
(Wikipediaより、一銭銀貨)
伊豆大島八丈島小笠原島などには全く川がないから、小学校にて生徒に説明をするに川の話が最も
水事情は、いつだって離島で生活する者の頭を悩ませる。
伊豆大島の住民は、古くから樹幹流にこの解決を求めたと云う。
樹幹流。
読んで字の如く、木の幹を水が流れる現象である。
樹木にとって、葉とは単なる光合成の道具のみにとどまらない。雨水を集めて根に送り込む、漏斗のような役割も果たす。
これを最もうまくやるのがブナであろう。ブナの葉は、受け止めた雨粒を粗漏なく枝へと送り込むように出来ている。そして枝から更に幹へと、順々に伝わってゆくに従い水の流れは太くなり、最終的には根本へ至る。
枝を伸ばして葉を茂らせれば茂らせただけ、集められる水の量も増加するのだ。植物というのはとことん合理的で、そして貪欲に出来ている。
その貪欲さを、更に利用したのが人間だった。この自然の集水システムに上手く割り込み、自分たちの生活用水に充てたのだから。
とはいえ、いつまでもそれに頼り切って満足してはいられない。島を発展させるには、もっと安定した水の供給が不可欠だった。
そこで昭和に入って間もなくの頃、井戸を掘ろうという話が持ち上がった。このあたりは円了よりも楚人冠に詳しい。
三原山で聞えた伊豆の大島は、水のない事でも聞こえてゐる。島の住民は飲料水の大部分を雨水に仰いで、井戸といふものは島中に一つもない。
それでは困るといふので、東京港汽船会社の発企で、同会社の定期船の出入する元村の海岸に一つ掘抜井戸を掘ることになった。
掘って掘って三百六十尺に至ったら、忽ち清冽な水がわき出して来た。これでやめておけば宜かったのだが、この調子でもっと掘り下げたら、温泉が出るかも知れぬといふので、一層深く掘り進んで行ったら、これはしたり、今度は塩水がわいてきました。(『山中説法』10頁)
そのまま『日本昔ばなし』に採用されてもいいほどに、筋道が秀逸な話であろう。楚人冠も同感だったらしく、あくまでもおどけた調子でこの事件を書いている。
ついでながら、例の「リレー投身」の目撃者となった矢崎某なる男性も、この元村の住人である。
伊豆大島の沿岸部に温泉が湧くのは、それからおよそ半世紀後。1986年の噴火によって湧き出した、「浜の湯」の登場まで待たねばならない。
もっともこの時既に元村は、周囲の五ヶ村と合併して「大島町」と改称していたが。
(Wikipediaより、元町港)
円了が伊豆大島を題材に詠んだ歌は他にもあって、
流れて富士の衣とぞなる
笑ふは富士、眠るは天城、大口を、
あけて煙草を吹くは大嶋
の二首である。
円了もまさかこの三原山の「大口」が、軽く四桁の人命を呑み込む奈落への直通口に化そうとは、夢想だにしなかったに相違ない。
ましてや1984年には、怪獣王ゴジラまでもがその火口にぶちこまれるとは、とてもとても。
有為転変は世の常といえど、これはちょっと極端すぎよう。
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