穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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欲界の覇者


 富に対する、まるで猛火のような情熱、人の欲念の果てしも・・・・なさ・・を感じたければ、十九世紀アラスカの方を視ればいい。


 一八六八年――この「冷蔵庫」を合衆国が買収したつぎのとし。ヤンキーどもは早速やった・・・プリビロフ諸島に乗り込んで、オットセイを殺戮すること二十四万頭もの多きに及んだ。


 もちろん皮を剥ぐためだ。


 この鰭脚類の纏う毛皮は、加工によって優秀な防寒着に化けるのである。

 

 

 


 それを目当てに、ロシア領であった以前は禁制だった銃まで使い、アメリカ人らは手当たり次第、効率的に狩りを遂行し続けた。


 そう、禁制・・帝政ロシアはオットセイの個体数の調整に、割と、案外、熱心だった。十八世紀の発見当初、勢いに乗じてやり過ぎたという反省が彼らの中にもあったのだろう。雌は獲るな、争いに敗れハーレム形成にしくじった弱い雄だけをターゲットにせよ、それにしても銃は使うな。そういう規制を張り巡らせて、厳しく遵守せしめた結果。オットセイの個体数は二百万頭のラインに於いて、安定して保たれ来ったものだった。


 ところがアメリカ人という、この新しいご領主様は、そういう歴史のすべてを無視した。


 盲滅法としかいいようがない。雄雌老幼のべつなく、オットセイの形をしているぜんぶが狩りの対象だった。


 結果がつまり二十四万頭である。総数の実に一割を、たった一年で獲ってしまった。


 しかも市場は、まだまだオットセイの毛皮を求めて奔騰している。


 アパレル系の強さというのを垣間見る気がするではないか。


 鉄板も鉄板、廃れを知らぬ不滅の産業。そんな錯覚さえ起こす。


 獲れば獲るだけ金になる。ならば拝金宗のメッカたる星条旗の国民が、躊躇逡巡するはずもなし。フィーバータイムは持続した。

 

 

Alaska Purchase (hi-res)

Wikipediaより、アラスカ購入に使われた小切手)

 


 そういうところへ、更に科学が拍車をかけた。オットセイの生態に興味を抱いた動物学者が執念深い研究の末、ついに彼らの習性を――「回遊」の謎を闡明したのだ。


 といって、あくまで一部・・でしかない。何故そうするかは相も変わらず不明だが、少なくとも何処を泳ぐか、定められた経路については突き止めた。「秋が来ると、プリビロフを後にして、アリューシャンの島々の間の海峡を通って南へ下り、春がくるとオレゴン州の沖合を経て、海岸伝いに北上し、六月頃にベーリング海に入り、古巣に納まると云ふ道筋を取るのである」『あらすか物語』)。そして毛皮業者にしてみれば、この段階でもう既に、価千金と看做すには十分すぎる情報だった。


 ――いつ、何処を通るか見当がついているならば、待ち構えて捕獲するのも容易であろう。


 斯様な発想に基づいて、アメリカ人は新機軸を切り拓く。


 オットセイの沖合捕獲のはじまりである。


 上述の通り、オレゴン州ワシントン州の沖合を通過するところを狙いすませば、態々プリビロフ諸島まで――ベーリング海のど真ん中まで出向く苦労も払わずに済む。

 

 

(プリビロフ諸島の位置)

 


 寒さにふるえる必要も、輸送のコストも省けるし、いいことづくめな手法であった。


 やらない理由を見つける方が難しい。


 流行は、もう必然だった。「かうした沖取漁船が段々に増加して行って、一八九四年には百十隻に達し、捕獲高は実に十二万一千百四十三頭に上」るという、ある種壮観を呈すに至る。


 もっとも狩られるオットセイにしてみれば、ただただ厄災なだけであり、壮観だの何だのとふざけんじゃねえという話だろうが。


 まったくべらぼうな濫獲である。これでは「如何に無尽蔵を誇ったオットセイでも堪ったものではない。種族の絶滅は、目に見えてゐた。そこで政府は捕獲制限法を発布したが、沖取業者は、カナダの国旗を掲げ、監視船の眼を晦まして、相変わらず荒稼ぎを事とした


 なんときらびやかなアウトローの精神だろう。


 西部開拓時代の混沌は、どうも、どうやら、大陸内部にとどまらず、大海原の上にまで溢出していたものらしい。スティーブン・アームストロングの掲げた理想、「真の自由」サンズ・オブ・リバティの具現であった。

 

 

 


 虎狼をも凌ぐ貪婪な欲。


 それを遂げるためならば、どんなことでも仕出かしかねない見境のなさ。


 そういう資質を備えたやつを、歴史は往々、強者と呼んだ。


 当然である、現世このよは欲界なのだから。


 欲こそ意志を支える柱、欲の多寡こそ生命いのちの強さ。であるが以上、強欲な者ほど優位な場所へ、イニシアティブを握るのは、自明の道理に違いない。

 

 

 

 

 


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人的資源本格派


 タタールのくびきが叩き込まれるより以前。キエフこそがロシア民族――スラブ人らの本拠であった。


 九、十、十一の約三世紀の期間に亙りこの街は、奴隷の国外輸出によって経済上の繁栄を得た。


 人を攫って売り飛ばすのが、彼らの主要産業・・だった。

 

 

Kyiv River Terminal P1320911 Поштова пл

Wikipediaより、キエフ河川港)

 

 

 ヴォルガ川ドニエプル川黒海等を経由して、北はスカンディナヴィア半島から南は中東、アナトリアに至るまで、実に広範な販路を持っていたらしい。


 驚くには及ばない。月の砂漠を遥々とゆくキャラバンたちにしてみても、十九世紀の終わりごろまで扱う品に「奴隷」を含めていたではないか。人の命に値をつける。同じ人間にあらずして、器物、道具、あるいは畜獣として対処する。世界中のどの地域でも、一度はそういう暗黒を潜っているものである。

 

 

Arabslavers

Wikipediaより、アラブ人の奴隷貿易キャラバン)

 


 ありがたいことに、ちょうどテオドール・ヘルマン・パンテニウスTheodor Hermann Panteniusヴォルガ川流域一帯で行われていたロシア人らの交易景色を書き残してくれている。一九〇八年刊の『ロシア史』Geschichte Russlands中にそれはもう、いきいきとした筆致で以って。


 ちょっと覗き見てみよう。なお、翻訳は嘉治隆一。東京帝大独法科出の、ジャーナリストで政客だった人物だ。

 


 ロシア人は本国からやって来てヴォルガ川に投錨する。碇泊した所に大きな木造の家を建て、十人乃至二十人宛同居する。誰も彼もが長椅子を有ってゐて、自分が売らうと思って連れて来た美しい乙女(女奴隷)をその上に坐らせる。
 河岸にはかねて先人達が人間みたいな顔をもった大きな偶像を立て、その周囲には小さいのを沢山立てておく。商人は到着するや、その前に赴いて、パン、肉、乳、菲、酒の類を犠牲に供へて云ふ。「オオ、主よ、私は遠方から遥々とこれこれの頭数の乙女を伴ひ、これこれの枚数の黒貂皮をもって参りました」と商品の数を数え上げてから、更に続けて云ふ、「どうか、私の売りたい物を全部買ひ取り、値切ったり、懸引きをしたりせずに、デナールアラビア金貨ディルゲームアラビア銀貨とを払って呉れる様な商人をお遣わし下さい」と。そして取引がうまく運ばないと何度でも犠牲が繰り返され、案外好都合に運んだ場合には牛や羊を屠り、その頭を偶像の側に立ってゐる棒杙の尖端に突きさして、肉の一部を貧乏人に分配してやり、残部を偶像に供へておく、夜中に犬が来てこの肉を食って了へば、「主は自分に慈悲を垂れ給ひ、自分の供物を嘉納あらせられた」と考へて喜ぶ。

 


 これがまあ、だいたい十世紀ごろの現実だった。

 

 

Theodor Hermann Pantenius 01

Wikipediaより、テオドール・ヘルマン・パンテニウス)

 


 以上を読んで、筆者わたしの脳の海馬あたりがなにやら妙にざわついた。


 そういえば、と符合することがあったのである。


 そういえばプロミシュレンニキも斯くの如きでなかったか、と。


 十八世紀、ベーリング探検隊の活躍により、アラスカが如何に上質な毛皮獣の宝庫であるか知れ渡って以後というもの。シベリア辺に棲息していた狩猟民らは一獲千金の欲望に燃え、眼の色変えて彼の地に渡ったものだった。


 といって、その具体的なやり方は、みずから野山に分け入って銃を撃つなどまるでせず。


 却って海岸一帯の原住民を襲撃し、その集落の女ども――もっぱら若い、妻や娘を人質にとり、おろおろしている旦那に向って、


「こいつらを無事に返して欲しけりゃ、わかっているな。何日までに何匹ぶんの毛皮を剥いで持って来い」


 頭ごなしに言いつける、とどのつまりは強制労働めいた手法を濫用したと聞き及ぶ。


 で、原住民の男どもが必死の思いで獣を追っているあいだ、ロシア人らはぬくぬくと、暖炉の傍で人質にした女どもを弄びつつ過ごすのだ。

 


 かうしてプロミシュレンニキは一冬を蛮地の後宮ハーレムで原始的な快楽に耽り、一陽来復を待って土人から毛皮を蒐める。もし毛皮の枚数が期待したよりも少ない場合は、露ほどの慈悲も加へず、土人を殺戮する。罠道具を還すと、その報酬に土人の女に頸飾を与へ、それっきりでカムチャッカに出帆する。翌年になると又違った船が来て同じやうな暴虐を逞しうしてゆく。永い間かうした苦痛を我慢して来たせゐか、生来陽気なアリューシャン土人も、流石にプロミシュレンニキに怨恨を抱くに至ったのであった。(昭和十七年、祥瑞専一著『あらすか物語』)

 

 

 


 なんという光景であったろう。


 流石に言葉を失いかける。


 シベリア抑留をやらかしたのも納得だ。


 民族性、の一文字に象徴される拭いきれない何か特徴というものは、確かに在るのではないか。そんな思考がつい兆す。

 

 

 

 

 


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血より生まれよ ―屠殺と肥料―


 むかし、豚の解体を観た。


 直接ではない。ブラウン管のテレビ画面を通してだ。中学生の頃であったか、道徳の時間にドキュメンタリーを流したのである。


 ドイツ某所で平和に生きるありきたりな家族らが、飼育していた豚を潰して食糧に――生命いのちを物体に加工してゆく、その過程。きびきび動く、慣れた手つきは今も記憶に鮮やかに。カーテンを閉めた教室で、息も忘れて見入ったものだ。あれは気の利いた授業であった。

 

 



 映像の中、豚が流す紅血を、ドイツ人らは金属製のタライに溜めていたはずだ。なにやら棒で撹拌し、凝固するのを防ぎつつ、あとでミンチに注ぎ混ぜ、ソーセージの中身に使う。番組の題を「一滴の血も活かす」と銘打ったのはこれゆえかと深く得心したものだ。


 だがしかし、屠殺過程で流される血の利用手段は、なにもアレのみに限らない。限らないと最近知った。乾燥させて肥料にもなるそうである。血粉という。窒素分を豊富に含む。その詳細な製法が、昭和初頭の百科事典――『萬有科学大系』――にあった。


 せっかくなので引いておきたい。

 


 家畜体の一割内外を占むる血液は、屠殺後出来る丈排除して肉味の向上と腐敗の遅延をはかるので、其産出量も少くない。(中略)血液は其侭腐敗せしめて肥料にすることもあるが多くは血粉に製造する。血粉の製法は血液を撹拌してトロンバーゼ(酵素の一種で血液を凝固せしむる作用のあるもので、血液中に存在してゐる)の作用で血球を凝固せしめ液部を分ちて乾燥するもの、或は硫酸を用ゐて血清を分ち血餅のみを乾燥したるもの及石膏、石灰、泥炭等を加へて直ちに乾燥するもの等がある。

 


 書き手の名前は平尾菅雄、東京帝大農学部農芸化学教室所属の農学博士。かつてのヤクルト副社長と同姓同名ではあるが、いったい関係があるのか、どうか。


 その点、確証になりそうな何物をも見付けられない。

 

 

 


 更にまた、平尾は注目すべき農法を書き残してくれている。


 豚コレラやら鳥インフルやら、疫病により大量死した家畜の屍体。


 現代でこそ穴を掘って埋めるしかないあの損失も、過去にはまだまだ用途を附与され、活用されたものらしい。

 


 欧米の様に畜産業の盛んな国では、病畜の利用法として屍体を適当の大きさに切断し、四~五%の硫酸を加へ二~三気圧下に煮沸し、上部に浮ぶ脂肪は石鹸工場に送り、残部を乾燥して粉状となし肥料に供してゐる。之はドイツ、南米、濠州等で盛んに行はれてゐるものであって、屍体全部を処理して作ったものであるから屍体粉と呼んでゐる。

 

 

(オーストラリアのコンビーフ工場)

 

 

 人間は何を食らってきたか。


 その食べ物は、どのように生産されたのか。


 少年の日より一貫して変わらずに、我が血、我が胸を湧かしてくれるテーマであった。

 

 

 

 

 


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1901年のバイオハザード ―吸血生物、水道水に混入す―


「なんだ、おい、くそ、ふざけんじゃねえ、馬鹿野郎――」


 結城銀五郎は顔じゅうを口にして叫ばずにはいられなかった。


 こんなことがあっていいのか。


 水道水にヒルが混ざり込んでいたのだ。


 それも一匹や二匹ではない。


 ぼたぼた、ぼたぼた――開いた栓からひっきりなしに、このいやらしい体色の環形動物がまろび出て来る。

 

 

Leech in water

Wikipediaより、ヒル

 


 その数、実に二十三匹。トラウマになりそうな光景だ。動顛するのも無理はない。明治三十四年五月二十三日午前、東京市京橋区木挽町一丁目に巻き起こった椿事であった。


「どうしたどうした、なんの騒ぎだ」


 声をききつけ、家人どころか隣人までもがやってきた。


「なんのもヘチマもあるもんか」


 生え際まで真っ赤に染めてまくし立てる銀五郎。どうにか彼から事情を聞き出し、


「そりゃ驚いた、不思議なこともあるもんだ」


 隣人は目を丸くした。


「ふしぎで済ませられるかよ」
「まあそうカッカしなさんな」


 銀五郎は不満であった。


 こういう場合、目くじらを立て、水道局の怠慢をなじり・・・、怒りを共にしてくれるのが人情家というものだろう。


 だのに目の前のこいつときたら別段顔色も変ぜずに、問題の水道栓を横から前から、角度を変え変え観察している。


「まだ出るかねえ。後ろにもっとつかえて・・・・いたりするんじゃないか」


 とうとう勝手に栓を開放させもした。


 ほどよく冷たい皐月の水が勢いよく迸る。

 

 

Drinking water

Wikipediaより、蛇口から出る清潔な水)

 


 果たしてあった・・・。流れの中に、存在してはならない影が――。


「うげっ」


 慌てて栓を締め直す。
 一分に満たぬ短い間。にも拘らず、たったそれだけの合間の中に七匹ヒルが落下して、銀五郎宅で確認された異物の数は三十台の多きに上った。


「どうだ」


 俺の言った通りだろう、と。


 正体不明の高揚を籠め、銀五郎が詰め寄った。


 隣人の動揺――すまし顔を維持しきれずに嫌悪に引き攣る表情が、いっときながらヒルどもの不快感を上回るザマミロ感を生んだのだろう。


「こりゃあたまらん、ちょっと洒落にならねえな」


 怖気をふるって、隣人は声を吐き出した。

 

 

(クラウディア水道遺跡)

 


 東京市の衛生に深刻な疑義を植えつける生物異変の発生は、しかしもちろん、銀五郎宅一個のみに限らない。


 相前後して、市内各所で同様の事態が発生している。


 以下、試みに、具体的なポイントを幾つか選んで並べてみると、

 


京橋区入船町三丁目   白木重吉  方

京橋区南伝馬町二丁目  宮本善之助 方

日本橋区鉄砲町三番地  榊原友吉  方

日本橋区蠣殻町二丁目  松本藤太郎 方

浅草区永住町六十九番地 吉田政蔵  方

 


 こんな調子だ。


 まず以って「頻発」といっていいだろう。


 水道局は事態を重く視――当たり前だが――、直ちに調査を開始した。いったい何故、何処から、いつ、どうやって、ヒルが水道に混入まざったか。丘浅次郎理学博士に嘱託し、それら事由の解明を懇望したわけである。

 

 

Oka Asajirō (cropped)

Wikipediaより、丘浅次郎

 


 調査を経て、丘が呈した報告書の要約を、同年五月二十九日の『読売新聞』が行っている。


 眼目は大別して五つ。


 本紙に曰く、

 


(一)若干の蛭は確かに水道鉄管より出でたるものゝ如し。


(二)水道より出でたりと云ふ蛭の種類は三種にして何れも東京市内及近郊の池溝水田に棲息するもの。


(三)蛭は鉄管の如き暗黒なる、常に水圧強き、食物の少き水中にも産し若しくは生活し得ずとは断言し難く(後略)


(四)蛭の水道管に入りたる道は最初濾池を敷設する際に機会を得たるものゝ如し(中略)大なる鉄管を敷設するには相当の長き時日を要する故其間に数回雨に遇ひたる事もあるべく且つ鉄管は十分に掃除したるものにあらざれば此際鉄管中に流入せしものと考へらる。


(五)鉄管中の蛭を駆除すべき方法は水流を以て之を流し出すの外良法なかるべし、蛭は四月下旬より十月半ば頃まで水中に遊泳するものなれば数回水流を以て鉄管を掃除すべし。

 


 なかなかすっきり纏めてある印象だ。


 田中正造の記事といい、当時の『読売』の質の高さはまったく折り紙つきである。

 

 

 


 ところで筆者はついこのあいだ、『アラーニェの虫籠』視聴た。


 水道どころか、人体から蟲が飛び出すアニメ映画だ。


 面白かった。画面に釘付けにされる感覚。最初から最後まで、映像に食い入りきりだった。


 その余韻が去らぬうちに書き上げた。


 さても有意義な体験だったと評したい。

 

 

 

 

 


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禍津風前後 ―続・世界帝国プレリュード―


 十四世紀、人類はペイルライダーの降臨を見た。


 黒死病の流行である。


 ヨーロッパの天地では、どう控えめに測っても総人口の四分の一が死滅した。

 

 

Apocalypse vasnetsov

Wikipediaより、黙示の四騎士)

 


 イギリスは島国、欧州大陸本土とは地面で繋がってはいない。


 ドーバー海峡で隔てられているというのに、それでも菌はやって来た。


 一三四八年、ドーセットシャーの一港にて確認された症例が、どうも発端であるらしい。


 それが終わりのはじまりだった。港から内陸へ、瞬く間に州全体を汚染して、デボンやサマーセットといった隣接地域も次々堕ちる。


 八月にはブリストルにまで侵入された。


 当局は半狂乱になり、「次に危ない」と推定まれたグロスターなぞ、ブリストルとの交通を全面的に断ってまで防御策を講じたが、結局むなしく、伝染の悪夢に曝されている。


 黙示の騎士は倦むということを知らないらしい。グロスターから更に東を目指して疾走はしり、オックスフォードを跳躍台に、遂にロンドン府内に這入はいった。


 病がどれほど猖獗を極めたかに関しては、翌年四月十日まで議会が停止されたという、この一事のみをとってもわかる。リモートワークなぞ期待するのも愚かな時代、これがいったい如何ばかりまで国家運営を遅滞させたか、洞察するにも余りある。

 

 

 


 英国に於ける黒死病の流行にひとまずの落ち着きが齎されるまで、二年弱。一三五〇年の春に至るまで俟たねばならず、その間築かれた死体の山は膨大どころの騒ぎではない、慄然たる域だった。


 世界の終わり、黙示録の実現を幻視するに相応しい、この大厄災を以ってして、「英国経済史を二分する境界」と看做したがる向きもある。なんといっても疫病の禍風かぜは労働力をもごっそりさらっていってしまった。単純な肉体労働者ですら既にもう、「いくらでも替えの利く」存在ではなく、賃金を騰貴させてでも繋ぎとめるべき必要性を帯びていた。


 賃金が上がれば、物価も上がる。


 結果的に招来されるは、社会格差の是正であった。一般的な生活水準がいや増して、食肉消費もずいぶん増加したらしい。


 ところがこの上昇気流に、なんの因果か、乗りっぱぐれた人々がいる。


 他でもない、農村に棲む百姓たちこそである。

 

 

(イギリス、ラヴェンダーの収穫)

 


 物価騰貴の影響は、どういうわけか農産物に限ってのみは不自然なほど鈍かった。


 消費者の立場からすれば、きっと福音なのだろう。が、農家にとってこれほど迷惑なことはない。


 周囲がステーキに舌鼓を打つ中で、自分たちだけ冷えた麦粥を啜るなぞ、到底我慢がならぬ話だ。耕作者、特に小作人どもは競うように鍬を棄て、農地を離れて都市に流入、労働者たるを志向した。地主は大いに閉口し、土地は肥沃なむかしを忘れていたずらに荒廃しはじめた。


 農村からの人口流出! なんと呪わしい響きであろう。いつの時代、どこの国でも深刻な悩みの種である。


 対策として、十四世紀のイギリスで講じられた手段は三つ。


 第一は比較的人手の少なくて済む、牧羊業に転向すること。くだんの野村兼太郎なぞはこれをして、「英国の羊毛は良質を以て聞えてゐたから、この策は恐らく当を得たものであらう」と評価している。

 

 

スコットランドのとある農場)

 


 第二は小作人に媚態を示す、彼らの賃金を上げてやること。地主のとりぶんがそれだけ減るが、背に腹は代えられないというものだ。効果につき、再度野村の言葉を借りると、「このことは明らかに農業労働者をして、その地位を自覚せしめ、又彼等して生活の向上を望ませるに至った」。婦人ですら、黒死病流行以前は半ペンスで雇えていたのが、一日二ペンス払わなければとても留めておけなくなったそうである。かくて「中世の著者ラングランドなどをして農民の贅沢を嘆ぜしめるに至った」とも。


 第三は第二のおよそ逆、国家の力で人の流れを無理矢理阻んでしまうこと。お上の威光で小作人を土地に固く縛り付け、義務を強制させるのである。


 ある地方からある地方へと移動するには、元々の地方当局に願い出て、許可証を受領しなければ不可能にするなど、例としてまず好適だ。


 和風な言い回しを敢えてするなら、通行手形制度のようなものだろう。


 大きな効果が見込めるが、そのぶん農民の反抗心を煽り立てる危険を孕む。実際問題、そう・・なった。またまた野村にお出まし願うと、「事態の根本に存する思想を理解し得なかった政府は、一三四九年、一三六一年の両条例に次いで一三七七年の法令を出して、領主の強制権を認容した。こゝに於いて彼等の反抗心は一層高められた」


 この反抗心、不平不満の鬱積が、夏の高原の朝靄みたく勝手に溶けて消えてくれるわけがない。耳を聾するけたたましさで炸裂する日がやがて来る。

 

 

ウェールズ地方の女性たち)

 


 疫病の投げた波紋は広く、深刻で、ふち・・に当たって跳ね返り、新たな波紋をまた呼び込みもするものだ。


 そういう連鎖反応を辿ってみるのも面白い。


 世界帝国に至る以前も、到った後も。イギリスはまったく、芳醇である。

 

 

 

 

 


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富を集めよ、この島に ―世界帝国プレリュード―


 七つの海を支配した超大国イギリスも、中世頃にはずいぶん惨めなものだった。


 この国の対外貿易は――島国であるにも拘らず――、ほとんど全部が外国商人どもの手に落ちていたといっていい。


 ハンザ同盟ヴェニスの商人――そのあたりの連中が大あぐらをかいていた。彼らは宛然天使のように柔和な微笑を浮かべつつ、猫撫で声で王侯貴族に接近し、その幅広な袖の下へと山吹色の菓子をねじ込み、ねじ込みまくり、以って様々な利権を引き出し、ふと気がつけば当の英国人よりもずっと有利な条件のもと商業に従事する「高み」にのし上がっていた。

 

 

ヴェニスの街並み)

 


 タダみたいに安い関税が例としてまず相応しい。賄賂とは元来、そういう性質ではないか。海老で鯛を釣るのが目的である。中世に於けるイギリスは、実に喰いつきのいい漁場であった。


 就中、ドイツ北部の商人どもの鼻息たるや素ン晴らしいものがあり、首府ロンドンの只中にティールヤードと通称される規模の大きな居留地を占め、ますます勢威を逞しくしたものだった。


 こういう状況を、しかしほとんどの英国民は異としなかったようである。そのあたりの機微につき、ウィリアム・ジェームズ・アシュリーWilliam James Ashley「なんら怪しむに及ばない」と喝破した。当時の英国国民の対外感覚を勘案すれば、まったく自然な心理傾向ではないか、と。

 


ある都市の市民にとってその都市以外の地方から来る者は尽く外国人なのである。ブリストルの市民にとってはレスターの商人もハンブルクの商人も同じことなのである。唯それ等の者に対し、出来るだけ自己の都市の利益を計らんとするに過ぎない。従って外国の商人が国王に献金し、財政的援助をなして何等かの特権を得たとしても、彼等の関するところではなかったのである

 


 こんな具合に、その著書である『経済史』Economic History中で説いている(翻訳・野村兼太郎)。

 

 

 


 要するに一体感を伴った国民意識が社会に存在していない。民衆は個人のまま溶け合わず、共同体といっても地方的がせいぜいだ。中央の動きに没交渉、国富の流出を警鐘されても自分の財布が膨れて居ればそれでよし。ナショナリズム以前の社会は、どうもこういう脆弱性を伴うものであるらしい。


 後世からすれば信じ難いほどの無神経さで、大衆は事態を看過する。


「こんな馬鹿な話があるか」


 と眼を怒らせて立ったのは、多数派とはほど遠い、一部の地元商人だった。


 再びアシュリーの言葉を借りると、外国資本の活躍に「激しく嫉妬を駆り立てられた」商人たちは、屡々無頼漢を使嗾して暴動ないし略奪騒ぎを起こさせた。更に気概のあるやつは、自分こそが彼らに取って代わらんと船を仕立てて対外貿易事業の世界に飛び込んだ。当時の人は後者を指すに、「アドベンチャラー」――冒険者の名を以ってした。


 ある種の日本人にとり、ここ数年来、急速に耳馴れた響きであろう。

 

 

 


 険ヲ冒ス――実際彼らの負ったリスクは甚大で、ちょっと言葉に為し難い。


 前述の通り、政府の庇護は外資にこそ注がれて、冒険者らに廻してやれる余力など欠片ほども残っていない。


 彼らはまったく自分たちの手腕のみにて海賊その他の脅威を防ぎ、交易という、この刺戟的な賭け事に挑まざるを得なかった。


 既に賭けである以上、凶を引いたやつもいる。


 特に悲惨な大凶が、一三七五年に転がっている。


 貨物を積んだブリストル商人の船舶が、ドーバー海峡を航行中に何者かにより拿捕され焼かれ、一万七千七百三十九ポンドもの損失額を計上したとのことだった。


 聖職者の年収が五ポンドにも届かなかった時代に於いて、こんな数字、青ざめるどころのさわぎではない。


 致命的といっていい。何人か首を括っても、ちっとも不思議でないだろう。

 

 

 


 げに恐るべき惨状を目の当たりにして、しかしそれでも、新たな冒険者は生まれ続けた。


 羊毛を輸出品に携えて、フランダースやイタリア辺から質の高い織物や酒、それにもちろん武器を輸入品として、持ち帰っては巨利を博したものだった。


 彼らの流した血も汗も、あらゆるすべてが大英帝国世界雄飛の礎となる。


 十九世紀にとある紳士が口にした、

 


「北アメリカとロシアは我等の穀物畑であり、シカゴとオデッサは我等の穀倉であり、カナダとバルチックは我等の森林であり、オーストラリアは我等の緬羊牧場、南アメリカは我等の牛牧場、ペルーは銀、カリフォルニアの黄金はロンドンに流入し、支那は我等のために茶を産し、コーヒーと香料は東インド農場より来る。スペインとフランスは我等の葡萄畑であって、地中海沿岸の諸地方は我等の果樹園である」

 


 この情景を、やがて導くもといへと――。

 

 

 


 足利義満が権威を犠牲に唐土の富を大和島根へ流し込もうと躍起になっていた時分。地球のおよそ反対側では、こういう事態が進行中であったのだ。


 世界は広い。


 わけもわからず、無性に嘆息したくなる。

 

 

 

 

 


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追憶は戻らず


 日露戦争期間中、旅順閉塞の試みは三度にわたって展開された。


 明治三十七年二月十八日が第一回目の決行日。民間より、都合五隻の老朽船を買い上げて、指定座標でこれを沈没、その残骸で旅順港を通行不能に――物理的に封鎖してしまう算段である。


 その日に先立ち、海軍に珍客が訪れた。


 閉塞船の、もともとの乗組員である。


「天津丸」「報国丸」「仁川丸」「武揚丸」「武州丸」――この五隻を、幾久しく動かし続けた男たち。彼らはむろん、軍人ではない。


 一室を与え、用向きを問う。代表者が口を開いた。


「船にはそれぞれ、個性とでも申しましょうか、永く乗った者でなければわからない、動かしきれない部分があります」


 当たり前のことである。


「ですので、運用に万全を期すために。五隻の船それぞれに、せめて一人や二人なりとも、我らもとの船員を加えることは出来ますまいか


 にわかに常軌を逸しはじめた。

 

 

Lushunkou 01

Wikipediaより、旅順港湾)

 


「待て」
「一同、危険は覚悟の上でございます」


 誠意を顔面にみなぎらせる代表を、


「とにかく、待て。即答はできん。検討が要る」


 応接役は、そのような言葉で押しとどめ、なんとかいったん引き下がらせた。


「検討」の結果、この提案はあえなくも退けられることとなる。


 が、翻っていうならば、真面目に「検討」する価値を当時の海軍軍人が認めたということである。


 フネには確かに個性というものがあり、自在に進退させるにはそのあたりをよく踏まえ、深く、深く、彼女と気息を一致させねばならないと。


 やがて閉塞作戦失敗の報が伝わると、乗組員らは臍を噛んで悔やんだという。


「おれたちが同乗していれば」


 彼女たちあの五隻はきっと、必ず、役目を全う出来ただろうに。


 石に齧りついてでも決死隊に混ざりたかった、混ざらなければならなんだ――そういう趣旨の口惜しさだった。

 

 

(二十八糎榴弾砲

 


 これまで幾度も触れたことだが、性懲りもなくまた言おう。明治三十七、八年の日本人の戦意は異常だ。ひとり軍人のみならず、民間人の心まであまりに滾り過ぎている。


 狂奔というべきか。終局の勝利を結ぶべく、誰も彼もが血眼と化し挺身する灼熱の秋。修羅の形相、ひとつひとつを眺めるに、うってつけのモノがある。


 すなわち当時の新聞雑誌。今回ここでは国民新聞を透して視たい。


 明治三十七年四月二十日の紙面に曰く、

 


 開戦以来軍夫若しくは兵卒として従軍を願ひ出づるもの夥しき数に上る。出願者の詳細は千差万別にして第二補充兵たるものを第一補充兵として速に召集せられたしと願ふ者、予備後備に在るがため召集に遅れて此千載一遇の好機を逸せんかとあせる者、既に国民軍に編入せられたる下士卒にして此際是非軍人として出征したしと申出づる者、十八九歳の少年にして速に現役兵に採用を願ふ者、六十有余の老人にして抜刀隊を組織せんとする者、陸軍大臣と同郷の好を以て従軍を請ふ者等指を屈するに遑あらず。

 


 多門二郎山本権兵衛の亜種・同型が、群雲の如く湧いたのだ。

 

 血書の類も盛んに送付されてきた。


 うち一枚を抜き取るに、

 


 従軍志願書   私儀
明治三十三年陸軍第一補充兵に編入致され候然るに未だ召集の命に接せず此機に際し座視傍観するに忍びず候間何卒従軍御許可相成度此段血書奉願上候也

明治三十七年四月十五日 松本謙助

 


 意図は明晰、余計な装飾をなるたけ省いた直截な文。


 骨の硬さを窺わせるが、更にその上、生血を絞って綴られたのを勘案すると、もはや狂気の相すら帯びる。

 

 

 


 そういう民間からの上昇気流を、政府はどう取り捌いたか。


 再び『国民新聞』を参照すると、

 


 何れも其の志に於ては壮烈嘉すべしと雖も軍制整備の今日に於ては義勇団等の必要もなく、又徴兵令の規定現存することなれば気の毒ながら是れ等の出願は全く無益にして其効なきのみならず、軍国多事の際徒に当局者の手数を煩すに過ぎざれば国民は精鋭なる軍隊に信頼して各其業に勉励すること至当なれと其の筋の人は語る。

 


 ――ざっとこんな塩梅で。


 暴れ馬を駕御するような注意の程を、随分とまた困難な立場を強いられたらしい。


 猛獣性を完全に殺いでしまっては、戦の役に立たせられない。


 さりとて年中猛っていては、管理が面倒で仕方ない。


 博労の腕の見せ所というわけだ。彼らは概ねうまくやり、そして時たましくじった。日比谷焼討事件あたりが、失敗例にまず適当か。

 

 

Hibiya Incendiary Incident1

Wikipediaより、日比谷焼討事件、決起集会)

 


 きっと二度とないだろう。


 ここまで掲げた幾多の情景。


 大日本帝国ならざる日本国で、斯くの如きが焼き直される瞬間は、だ。一度文明がリセットでもされない限り不可能である。断言して構うまい。一切は追憶の涯てに去り、戻ることはないのだと。

 

 

 

 

 


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