穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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日露戦争士気くらべ


 ロシアの兵士は昔から、味方の負傷を喜んだ。


 近場のやつが血煙あげてぶっ倒れれば、そいつを後送するために、きっと人手が割かれるからだ。ああ願わくば我こそが、光輝あふるるその任にあずかり賜らんことを。なんといっても合法的に前線を離れるチャンスである。祈らずにはいられまい。

 

 

Medics-p013020

Wikipediaより、合衆国の衛生兵)

 


 一人の負傷兵に対して五人も六人もくっついて行くのはザラであり、特にひどいケースになると、とっくに死体になっているのに敢えて気付かぬふり・・をして、迫真の表情かおで背負おうとする不届き者まで存在していた。


 日露戦争に突入しても、その辺の機微は変わらない。


 否、変わらぬどころか寧ろ拍車をかけている。たまらずクロパトキンが訓示を出した。日付からし沙河の会戦中である。

 


戦闘未だおわらざるに幾百千の健康兵が隊列を離れて傷者を運搬するを見たり、十月十二日乃至十五日の会戦に於けるが如きは余躬ら幾群の兵卒一名の傷者を運搬し、其の群多きは九人を算するを認めたり

 


 負傷兵一人の後送に、健常な兵士九人が割かれる。
 馬鹿馬鹿しい非能率、こんな所業をゆるしていては勝てる戦闘も勝てなくなろう。

 


「余は峻厳に命令す、須らく此の如き弊風を弾圧し、攻勢戦闘に於いては特定せる衛生勤務兵卒のほか傷者の運搬に従事すべからざることを励行すべし

 


 そりゃあクロパトキンもこういう禁令を発したくなる。


 人の命の重さとやらがティッシュペーパーレベルにまで下落したソヴィエト連邦時代なら、サボタージュとして銃殺刑が妥当だろうが。どっこい政体は帝政だった。アカほど過激になりきれない段階では、これが精一杯だったのだろう。

 

 

Kuropatkin Alexey Nikolaevich

Wikipediaより、アレクセイ・クロパトキン。当時のロシア満洲軍総司令官)

 


 ところで視点をぐるりと巡らし、わが皇軍に注目すると、こちらはこちらで凄まじい。


 まず、撃たれても、それを報告したがらない。痛いともなんとも呻かずに、なるたけ負傷を隠そうとする。尉官どころか兵卒までもがそう・・である。後送など御免蒙る、みなに合わせる顔がない、頼むからここで死なせてくれと、あくまで前線に固執する。


 異様であった。とあるドイツの砲兵士官が日本兵を評するに、「勤皇愛国なる宗教の惑溺者」との言辞を用いた所以が見える。イギリスからの特派員、フランシス・マカラーが日本へ向かう船の上、たまたま居合わせた青年将校に面接し、「帰国し得る幸福」を祝したところ、

 


「私は少しも故国へ帰るのを喜んで居ません。何故って未だ戦争が終らないからです。私はこの負傷きず治療なおり次第また満洲へ戻ります」

 


 耐え難い侮辱を振り払いでもするかのように、決然と言い返される椿事もあった。

 

 

(第一軍、新橋駅の凱旋)

 


 また広島では、傷病兵のうちの一人がその恢復を認められ、再び戦地に召集されて、雀躍りしている情景も見た。未だ包帯を巻いたままの同僚たちがその彼を、「学校の児童が休暇前に我が家へ帰ることを許された生徒を羨むような」、ほとんど秋波といっていい、たまらぬ視線で仰ぐのも。


 諸々の経験からマカラーは、

 


戦列に参加することを驚嘆すべき熱心で渇望する日本兵士の心裡には、日本軍大勝の一大秘訣が潜んで居るのである。日本の兵士は、彼等の最下級の輸卒や、軍役人夫に至るまで勝利を得ることに熱狂して居る。然るに、一方のロシア兵は一般に勝敗に無頓らしく見えたものだ」

 


 このような観察を表明している。

 更に続けて、

 


「然しながら私は、日本人が今日の全盛をく永久に維持し得て、戦勝国としての栄華な幸福を享受して、とこしなへに今日の精神を維持し得るか、否かは、蓋し疑問だと思ふのである。
『成功は、人を倦怠に誘ふものである』『智識は、人に幻妄を齎すものである』時の流に れて、富の嵩むに随って、工業上の服役にも、商業上の道徳にも、あらゆる物質的享楽の発展に随って、日本人固有の熱心と、勇気と、立派なる大和魂は、漸次にその鋭端を欠かれ、挫かれんとするのでは無からうか

 


 ある種の危惧を書き添えるのを忘れなかった。

 

 

 


 盛りを前にその凋落を想うのは、如何にもバランス感覚に富んだ英人らしくて好ましい。

 

 

 

 

 


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水のほとりの旧き神


 一説に曰く、大津おおづ大水おおずであるという。


 現今でこそ熊本県菊池郡大津町として人口三万五千人、天高くして地は干され、交通四通八達し、道の駅には特産物たるサツマイモの加工品がずらりと並び、駅前にでんと鎮座するイオンモールが日々の暮らしを支え彩り潤して――まあ要するに、ほどよく田舎でほどよく便利な発達ぶりを呈しているが。


 遠い遠い神代のむかし、阿蘇の御山と熊本の市街まち中間あいだに位置するこの土地は、全く以って天一、際涯もない鏡の如き湖面であったそうである。

 

 

Michinoeki Ozu Kumamoto 2009

Wikipediaより、道の駅大津)

 


 むろん、あくまで伝説であり、地質学的・考古学的裏付けは皆無といって構わない。


 しかしながらこの「伝説」が一種特異な構成で、他ではちょっとみられない妙味を宿すものなのだ。


 朽ちさせるには些か惜しい。以下、拙筆なれどもその輪郭をなぞってみよう。


 まず、この湖は塩分濃度が非常に高い。一升の湖水を沸騰させれば四合の塩が採れたというから死海すらも凌駕している。迂闊に浸かろうものならば、さだめし皮膚に痒みを覚えたことだろう。そのくせ死海と異なって、水面下を覗いてみれば魚類の天国、ありとあらゆる種類のサカナが泰平楽な顔つきで悠々ヒレを波打たせているのだから堪らない。


「お前さんがた、浸透圧の問題はどう解決しているんだい」


 と尋ねても、


「あんた、そんな、重箱の隅を突っつくような、つまらん考えを起こすんじゃないよ」
「これだから乳しゃぶってる連中哺乳類というやつは」


 気にする方が不粋なのだと逆に説教を喰らいかねない雰囲気だ。


 それもそのはず、本当のところ、地球上のすべての魚類の故郷とは、この湖こそなのだから。

 

 

Dead Sea-18

Wikipediaより、死海沿岸)

 


 またべらぼうな大風呂敷をおっぴろげたものと思うが、さりとて「伝説」と銘打つ以上、これぐらいのスケールはあって然るべきだろう。


 とまれかくまれ水生生物の聖地に於いて、陸上生物の小知恵が通じるわけがない。それはそういうものなのだと受け容れるより他にない。


 あるいは湖のほとりに住まう神の御加護に帰してみるのもいいだろう。二柱ふたはしらの神がいた。片や全動物を支配する神、片や全植物を支配する神。どちらの神も名前を持たず、またカタチも曖昧である。従ってオノゴロ島の方々みたく、互いの姿を見合わせて、


「どうです、私の余っている部分と貴女の足りない部分とを接合させてみるというのは?」


 と、刺激的な事業に誘うこともない。


 なんだか妙なのが居やがらァ程度の認識で、かといって腕まくりして追い出しにかかるほど積極的にもなりきれず、とどのつまりは体よく無視して個々の権能に引き籠っている状態だった。


 ああ、日本の神様らしいと安心感がこみ上げる。

 

 

Kamitategamiiwa

Wikipediaより、上立神岩。天の御柱のモデルとも)

 


 より活発に働いたのは、獣類の神の方だった。


 否、活動的でありすぎた。粗製濫造も厭わずに次から次へと「作品」を創造しまくった挙句の果て、野にも山にも獣が満ちて収拾不能になっている。


 美しいピラミッド型の生態系など夢のまた夢、大量死の開始まで、あっという間のことだった。


「しまった、なんということだ」


 絵に描いたような崩壊過程といっていい。


 一連の事態を目の当たりにして、神様も流石に反省せざるを得なかった。これからは個体数にもちゃんと配慮した仕事をしよう。美しい国土に放つのは、本当に厳選された優良種たちのみでいい。……


 が、その前に、何はともあれ片付けである。見渡す限りの死体の山をどう処理するか。国中の火葬場をフル稼働させてみるとして、それでもいったい何日を、いや何週間を要すことやら。予測するだに気鬱になりそうな命題である。


「えい、面倒じゃ、こうしてくれる」


 神様はシンプルにやることにした。


 屍骸をごそっと掻き集め、掻き集めしては次々と、湖へ投げ込みだしたのだ。


 あきれ返る乱雑さ、こいつは本当に反省しているのかと疑いたくもなるだろう。


 案の定、魚たちが悲鳴を上げた。彼らもまた獣の神の被造物でありながら、うまいこと大量死を免れて武陵桃源の夢に耽っていたのだ。


 陸と水では、やはり色々勝手が違ってくるらしい。

 

 

忍野八海にて撮影)

 


 が、それも今日こんにちこの瞬間に終わりを告げた。水面みなもに集まり、パクパクと、救いを求めるかのように口を開閉させる魚群を神はじっくり観察し、特に優れた品種のみを掬い上げ、えっちらおっちら運んで行ってやがて海へとたどり着き、彼らをそっと放してやった。


 これは果たして慈悲であろうか? 真に当を得た措置か? 海があるならむしろそっちに死骸を棄てて、湖のことは放っておけばよさげなものを。あいや、否、いな、なにぶん神のなさること。きっと人智では及びもつかない深い思慮があったのだろう。そう言い聞かせることにする。


 懸念事項はなくなった。神様はいよいよ発奮し、大地の掃除にとりかかる。その終結の間際には、あれほどまでに果てしなかった湖がすっかり埋め立てられきって、だだっ広い野っ原へと化していたから驚きだ。


 獣の骸が素となった土である。


 当然ながら肥えている。


 植物の神は大喜びした。新たに誕生うまれたこの土地でなら、さだめしおれの愛し児たちも、立派に育つに違いない。


「さあ、根を張れ実れ世を満たせ。地上の真の支配者を証明すべきときは来た。天壌無窮てんじょうむきゅう宝祚之隆ほうそのさかえを謳うのだ」


 これまでの影の薄さはなんだったのかと訊きたくなるほど、精力的な活動だった。


 甲斐あって、このあたりではいついつまでも五穀の実り麗しく、豊作年など他所の国の十倍もの収穫が得られたためしもあったとか。

 

 

(豊穣神サクナヒメ様)

 


 ことほど左様に、繁栄とは流血伏屍あってこそ。


 高天原とも仏国土とも関わりのない、素朴な神の無邪気な残酷、しかしてその上に成立する「めでたしめでたし」。


 土着神話の魅力というのを網羅しきったものとして、大いに評価されていい。

 

 

 

 

 


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つれづれ撰集 ―意識の靄を掃うため―


 季節の変わり目の影響だろうか、鈍い頭痛が離れない。


 ここ二・三日、意識の一部に靄がかかっているようだ。脳液が米研ぎ水にでもったのかと疑いたくなる。わかり易く、不調であった。


 思考を文章に編みなおすのが難しい。埒もないところで変に躓く。書いては消してを繰り返す。停滞の泥濘に嵌り込む。キーボードをぶん殴りたくなる。


 よろしくない流れであった。全く以って面白からぬ悪循環だ。脱するために、虫干しでもしてみよう。蒐集しておきながら使いどころに恵まれず、いたずらに埃を被らせてしまった幾多の知識。ラストエリクサーみたいに死蔵されているそれ・・を、ここに並べて晒すのだ。以前はこれで、実際そこそこの効果はあった。

 

 

 


 最初はからいってみよう。最近あまり使っていなかったタグだ。丁度自由党一つとせ節」たらいう、妙ちくりんなやつがある。

 


一つとせ 人の上には人はない、権利に二重がないからは、此同権よ。
二つとせ 二つともないこの命、自由の為には惜みゃせぬ。
三つとせ 民権自由の世の中に、まだ目の醒めない馬鹿がある。
四つとせ よせばよいのに狐等が、虎面こめんかむりて空威張。
五つとせ イツ迄待っても開かねば、腕で押すより外はない。
六つとせ 昔思へばアメリカが、独立したるも蓆旗。
七つとせ ナンボお前が威張っても、天下は天下の天下なり。
八つとせ 大和男児の本領を、発揮するのは此時ぞ。
九つとせ コゝらで血の雨降らさねば、自由の土台は固まらぬ。
十つとせ 所々に網を張り、民権守るが自由党

 


 板垣退助が岐阜で刺された前後から、とみに口ずさまれるに至ったらしい。

 

 

(岐阜、大垣城址)

 


 全体的に野卑な雰囲気、如何にも不平不満の害毒を血中に飽和させている壮士輩が好みそうなフレーズだ。


 六行目のあたりなど、ワシントンがもし聞けば失笑するのではないか。


 自由について論ずるならば、

 


 利害得失を異にする四千万の民をして悉く同一の施政に満足せしめんこと、到底一政府の下に為し能はざる所なれば、大概の事は兎角互に堪忍して徐々改善の法を講ずるの外ある可らず。自由は不自由の間に在り。相互に自家の不自由を堪忍してこそ社会全体の大自由をも得らる可きことなれば、政府が既に立憲と改まりたる上は、不自由ながら古風なる圧政独断の慣手段は容易に施す可らず。人民に於ても亦、その身の私に多少の不自由不愉快を感じても、世安の為めには枉げて公法に従はざる可らず。元来国家保安の責は独り政府のみならず人民も亦共に之に任ずるの義務あればなり。

 


 やはり福澤諭吉の記述こそ。こちらの方が明らかに、何百倍も格調高い。


 自由は不自由の間に在り。このフレーズを福澤は殊更好んでいたようで、彼の書きものの随所に於いて見出せる。


 なんなら書幅の関防印にも具している。もっともそちらは「自由在不自由中」――「間」が「中」に、一文字異なっているものの、まあ大意に於いては変わりない。

 

 ほかでもない、「自由」という日本語を――少なくとも近代的な意味の「自由」を――発明した男による解釈である。


 文句のつけようのないことだった。

 

 

福澤諭吉

 


「だから僕はお袋を解剖して貰ったよ。特志解剖と云ふ奴だ。君大学では解剖を恐ろしく喜ぶものだね。三十円呉れたぜ」
「三十円? そいつは儲けたな」
「うん大儲をしたよ。どうせ火葬にするんだからな」
「それは大きにそうだ。新時代だね」

 


 大衆小説の一節。
 なんでこれを抜き書こうと思ったか、自分でもよくわからない。

 


「欠伸をするのなら、向ふをむいてやって貰いたいね、儂は昔から他人の口の中と、馬糞を踏んだ靴の底は見ないことにきめて居るのだからね」

 


 同じく大衆小説の一節。
 これを抜き書いた理由はわかる。どことなく荒木飛呂彦を感じる言い回しだったからだ。

 

 

 


「達者な身体の人の所へへっぽこ医者がやってくると、君の顔色が悪いとか脈が早いとかいって達者なものを病気にすることがある。浜口君や井上君は日本の健全な経済状態を今日のやうな不景気にした人である


「浜口などゝいふ政治も何もわからん小僧に馬鹿らしくて質問を致しますなんていはれるかい」

 


 前者は武藤山治の、後者は犬養毅による発言。


 いつか浜口雄幸の記事を書こうと思ってストックしていた評論である。


 困ったことに、その「いつか」がいつまで経っても来ないのだ。


 もし来たなら、そのときまた拾い上げよう。

 

 

 

 

 


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玲瓏透徹、甲斐の湧水


 人間、一生涯に一度ぐらいは自分の故郷を旅人の眼で観るべきだ。

 

 

 


 いつも通る道沿いの、風景に過ぎなかったホテルに泊まり、ガイドブックでも片手にしつつじっくり歩いてみるがいい。

 

 きっと新しい発見がある。そう嘯いたやつがいた。


 正月、初詣を済ませるなり雲隠れして、近所のホテルの一室に引き籠るのを癖としていた人物である。

 

 つまりは小泉信三だ。なんともはや彼らしい、ある種独特の提案だろう。


 それと似たようなことをした。ひところ前のお彼岸に、ちょっと山梨に帰省かえったのである。で、色々と地元の景勝を味わってきた。

 

 

 


 たとえばこれは忍野八海。富士の山麓、雪解け水の湧くところ。

 

 

 

 


 淵の碧さは背筋に寒気が走るばかりだ。

 

 

 

 


水のないところに人間の居住はできないが、清水のないところには神社もない。否な神社は玲瓏透徹、御手洗川となり得る清流のある地に創設されるものである。
 湧泉は人に飲用水を与へ、また灌漑の用をなすもので実に人世に必需の天然物である」

 

 石橋五郎の唱えた説だ。


 京都帝大名誉教授、日本地理学の第一人者。

 

 

 

 

 


 忍野の景色は彼の言葉の正当性を、非常に強く裏付ける。

 

 

 

 

 みたまの湯に汗を流しに行きもした。


 丘の上、ニンジン畑に囲まれて建つこの風呂は、温泉総選挙絶景部門で三年連続日本一をもぎ取る快挙を達成してのけたとか。


 実際問題、眺めはいい、すごくいい。


 南アルプス八ヶ岳も露天風呂からよく見えた。

 

 

 


 玄関口には妙なポーズの大垣千明が。


ゆるキャン△の浸透ぶりも、今度の帰省で私の中に大きな印象を残してくれたものである。

 

 

 

 

 


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山は踏みたし命は惜しし ―東西熊害物語―


 不運な男がいた。


 銃を携え、狩り場に進み出、首尾よく獲物を発見し、急所めがけて引き金を落とす。


 何百回と繰り返してきた動作であった。


 ところがこの日、山脈みたいに隆々と盛りあがった筋肉を持つ熊を向こうに回したる、この瞬間のみに限って銃は彼を裏切った。


 轟音も、硝煙も、反動もない。


 弾は不発だったのだ。


(まずい)


 慌てている暇もない。思考も血潮も、すべてが凍った。

 

 

Hugh Glass Illustration

Wikipediaより、熊害)

 


 熊は既に彼の存在を察知している。察知しているどころではない。眉間に殺意を漲らせ、三秒後にでも躍りかからんばかりの姿勢だ。最初の一射で確実に仕留める自信があったればこそ、この間合いをゆるしたのである。


 ところがもはや前提は崩れた。次弾装填の暇はない。舞台は一七九〇年のスカンディナヴィア、欧州大陸に於いてさえマスケット銃が主流の時代。筒先から炸薬と弾を補充する、しち面倒な動作のすべてが終わるまで、のんべんだらりと待ってくれているほどに、目前の獣は気長な性質たちではないだろう。


(えい、ままよ)


 と、思ったかどうか。


 この場合単なる行動爆発と見る方が適切かもしれない。いずれにせよ、事実はこうだ。手に握った銃器を彼は、鈍器・・として使用した。


 逃げるのではなく、むしろ逆に自分から熊の方へと駆け寄って、筒先で胸を突いたのだ。

 

 

Allegheny County Soldiers Memorial - IMG 1525

Wikipediaより、南北戦争で使用されたマスケット銃

 


 相手が人間だったなら、あるいは銃剣でも付けていたなら。


 肋骨を砕くぐらいは出来ただろうし、有効な刺し傷を与えることも叶っただろう。


 しかしながら不幸にも、現実の猟師はそのどちらの条件も具備してなどいなかった。彼の抵抗は火に油を注ぐだけ、熊の怒りをいよいよ激しく燃え立たせるに終始した。


 最初の一撃で、銃が手から吹っ飛んだ。


 あおりを食らって彼の身体も横倒しに倒される。


(むりだ)


 前脚による、熊の攻撃。ほんの数瞬の接触で、しかし猟師は彼我の間に横たわる絶望的な肉体上のスペック差を痛感させられたのである。


 倒れたまま、起き上がろうともせず、死んだふりに移行したのはきっとおそらくそんな「気付き」が関係している。

 

 

 


 首の後ろを両手で覆い、ガードして、厄災が過ぎ去るのをひたすらに待つ。


 運命の神に祈りを捧げたことだろう。


 が、往々にして祈りとは、踏みにじられるためにある。


 御多分に洩れず、というべきか。この場合もそうだった。熊はふんふんと鼻を動かし、しかるのち、再び前脚を動かして、彼の頭部をずけり・・・と打った。獣爪は想像以上に鋭利であった。彼の頭皮はべろりとめくれ、むきたてのミカンみたいになった。


 噴きこぼれる血を大きな舌がべろべろ舐める。


 その気味悪さ。


 名状しがたい口臭とも相俟って、いっそ地獄に下った方がまだしもマシな状態が、暫くの間持続した。


 それでも一切、顔を上げずに通したことが、結果的には彼の生命いのちを救っただろう。

 やがて、


 だぁーん


 と待ち焦がれた音がした。


 腥風を嗅いだか、それとも理屈を飛び越えた第六感の発動か。何かしらの方途によって異変を知った猟師仲間が救援に来てくれたのである。

 

 

(『アサシンクリード ヴァルハラ』より、ノルウェーの夜)

 


 怒号と銃火の乱舞する大騒ぎが熄んだとき、熊は死体となって転がり、猟師は辛うじて息を繋いだ。


 もっとも代価は重大で、頭部の傷は毛根の深みにまで達し、猟師は以後の人生をおそるべき禿頭姿で送る破目になっている。


 熊はまったく暴虐の化身そのものだ。


 連中ときたら綿菓子でも千切るみたいな容易さで、人間ひとの身体をぶち壊す。


 西洋だけでは片手落ちの憾みがあるから、せっかくなのでもうひとつ、日本の事例も併せて載せておかせてもらおう。


 岩手山岳界の重鎮・阿部庸三が昭和十七年ごろに発信した談話こそ、この場合には相応しい。

 


岩手山の北斜面に若旗といふ部落があり、こゝから見上げた屏風岩の岩峯は、飛騨側から眺めた奥穂にそっくりなので、我々の仲間に有名だが、この部落に面の皮を剥がれた男がゐる。山道を歩いてゐて出会ひ頭に熊に面接すると、熊の方でも余程驚いたと見え、後脚で立ち上がるなり、パッとその男の顔を大きな掌でひとなでしたまゝ、横へ飛んださうで、男は赤むけの顔のまゝ気絶したのを通行人に助けられたのださうだ。この男は黒い布で顔一面にヴェールをかけ、眼と鼻腔のところへ小穴を開けてゐる。私達の方では有名な男の一人である。

 


 再建手術が未発達な当時といえど、この凄惨さはどうだろう。

 

 

Okuhotakadake from karasawadake 1999 5 23

Wikipediaより、奥穂高

 


 もうじき行楽シーズンが盛りを迎える。


 山は踏みたし命は惜しし、二律背反を如何せん。


 さしあたっては鞄に鈴をつけることから始めるか。

 

 

 

 

 


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濃尾地震と福澤諭吉 ―「明治」を代表する個人―


 募金という行為について、もっとも納得のいく説明を聞いた。


 例によって例の如く福澤諭吉からである。

 

 

 


 明治二十四年十月二十八日、日本が揺れた。本州のほぼ真ン中あたり、濃尾平野地震が発生。放出されたエネルギーは、マグニチュードにして8.0、内陸地殻内地震としては日本史上最大規模のものである。


 一般には「濃尾地震の名で知られる震災を受け、福澤は云う。

 


 蓋し義捐金なるものは政府の臨時支出金などゝは全く性質を異にし、其起因する所を尋れば、同胞の兄弟姉妹が不慮の災厄に遭ふて難渋するの有様、如何にも気の毒なりとて、之を憐むの余り、取敢へず応分の資材を恵与して聊か自から我心を慰むるものにして、其目的は実際被害者の窮苦を救ふよりも、寧ろ先方の者が恩恵を蒙りて悦ぶ様子を見聞して、己も亦共に之を悦び、其情を以て情に接するの間に、云ふ可からざる楽を致すに在ることなれば、救助を授る者とは、成丈け接近して相互の感情に隔なからしむることを甚だ肝要なりとす。

 


 天啓だった。

 

 

Verwoestingen na een aardbeving in Japan, RP-F-2001-7-1641-12

Wikipediaより、濃尾地震の被害)

 


 ただの難癖、野次の類であるならば、これまでの人生でいくらでも見た。


 募金箱ほど嫌味ったらしいものはない、あんなのにどういう験もあるものか、一般庶民の小遣いをちまちませびって集めるよりも、一パーセントの金持ちどもから一気にごそっとむしり取れ、俺は一円も出さねえぞ、と、斜に構えて財布の紐を固くして、しかのみならずそれを行う人々を偽善者どもめと横目で蔑み冷笑して憚らない輩というのは、実に屡々――特に中高、学生時代――目撃したるところであるが、流石に福澤はそういう低劣な次元の住人ではない。


 かといって手放しに募金行為を賞賛しているのともまた違う、つまり募金の目的とは自己満足にあるわけだから、その満足がより深まるように計らってやるのが経世家としての道である、と。非常に実際的な内容を説いているのだ。


 私はこういう、濁世を濁世のまま受け容れて、その上であれこれ施策を練る福澤の態度が身悶えするほど大好きだ。


 ジョン・モーリーがウッドロウ・ウィルソンを批判するに、

 


 ――一体自分は、地面の中へ根を下ろしていない理想主義を抱いているような男は嫌いだ。

 


 との口吻を用いた気持ちと、これはどこかで繋がっている。

 

 

1891 Noubi earthquake

Wikipediaより、濃尾地震による地割れ)

 


 また福澤は、同じく濃尾地震に関連し、画期的な提言をしている。


 すわなち皇軍災害派遣だ。

 


…就ては今日の即案に、死傷者の手当には海陸軍の軍医看病卒を派出し、又は家屋、田園、道路、橋梁等の破損を脩るには工兵を用ひ、臨時に軍事上の活動を施して大いに功を奏することもある可し。

 

 

 いっそ未来視を疑いたくなる。


 おそるべき先見の明だった。

 

 

 


 ――もし「一人にして一代なり」という言葉どおりに、明治を代表さするに足る個人をさがすということになると、伊藤博文でも大隈重信でもなく、どうしても福澤諭吉でないと、すわりが悪い。


 ずっと後年、昭和の御代に、木村毅をして上の如く言わしめたのも、蓋し納得。

 

 

 

 

 


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虎と山伏、猫科の怨み


 虎は獅子より先に来た。


 上野動物園の話をしている。


 百獣の王の来園は二十世紀突入後――西暦一九〇二年、元号にして明治三十五年まで待たなければならなかったが、虎はそれより十五年も先駈けて、この地であくびをかいている。

 

 

The gate of Ueno Zoo in 1952

Wikipediaより、上野動物園正門)

 


 明治二十年、チャーネリーとかいうイタリアから来た興行団の飼い虎・・・が、折よくも秋葉原で子を産んだ。


 その子を目当てに動物園が交渉し、最終的にヒグマと交換条件で話を決着。愛らしさの塊のような四ツ脚を、晴れて迎えたわけである。


 幸い飼育は上手く運んだ。日に日に猛獣らしさを獲得してゆく秋葉原の虎。客の人気もうなぎ登りだ。


 ところがこの人気者には、いつまで経っても治らない、困った癖がひとつある。


 白い服が駄目なのだ。


 中身は関係ない。とにかく白衣を着こんだ人間を目の当たりにしたが最後、ぱっと瞳に怒りが燃えて、異様な興奮を示しだす。


 目を細め、香箱座りをしていても、途端にすっくと立ちあがり、喉を低く鳴らしつつ、檻の中を歩き廻って示威運動を開始する。

 

 

 


 粛殺としたその空気。


(なにが原因だろう)


 黒川義太郎は興味を持った。

 

 明治二十五年、初代常勤獣医として上野動物園の経営陣に参画し、ゆくゆくは園長にまで昇りつめる彼である。


 この人が調査したところ、意外な事実が浮かび上がった。


 虎にはトラウマがあったのだ。いや別に、洒落でもなんでもなく至極真面目な意味合いで。

 


…此虎が、まだ動物園へ来る前に、佐竹ッ原で小さい檻に入れられて居った頃、白衣の山伏の一団が興行を見に来た。
 見ると、檻の中に可愛らしい虎の仔が居るので、面白半分に手に持って居る杖で、格子の外から虎をつっついて見た。すると仔虎が怒って飛びかからうとするが、鉄格子に突っかかって、ひっくり返る。それを見て山伏共は手をたゝいて面白がった。
 仔虎時代の其怨みが、深く骨髄に達して居ったと見えて、成長した後も、白い服を着た人間を見ると、必ず身構へて示威運動を始める癖がついてしまったのです。
(『動物と暮らして四十年』20頁)

 

 

 


 猫は祟るいきものだ。


 あの柔らかな――ときに「液体」扱いされもする――生命体は、受けた怨みを忘れない。


 執念深く爪を研ぎ、いつかきっと復讐を成す。たとえ肉体を失おうとも、夢枕に立ち、精神を引き裂くり方で。


 そういうところも個人的には好きなのだ。なんとなれば、筆者わたしは報復の讃美者ゆえに。

 

 

(世界を報復でひとつにする人)

 


 ずっと以前、実家で少年時代を過ごしていたころ、捨て猫を拾ったことがある。


 いや、拾ったのは私ではなく両親なのだが、そのあたりの詮索はべつにいい。とにかく拾って、飼ったのだ。小さな、しかし光沢のある毛並みをもった黒猫だった。


 こいつにも妙な癖があり、ビニール袋のガサガサ音をひどく厭がったのである。あれを聴くたび耳を伏せ、姿勢は低く毛を逆立てる有り様だった。


 その反応があまりにも度を超えたものであったため、自然とひとつの想像が生まれる。こいつ、もしかして捨てられる際、ビニール袋に詰め込まれ、投げ捨てられでもしたんじゃないか? と。


 今回掲げた虎の話で、この想像は更に補強される運びとなった。

 

 

(『東方Project』より、凶兆の黒猫・橙)

 


 猫とはやはり、祟るサガであるらしい。

 

 

 

 

 

 

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