穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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才子たち ―森有礼と石田三成―


 英国籍の商船が、荷降ろし中に誤って石油樽を海に落とした。


 当時の世界に、ドラム缶は未登場。ネリー・ブライがそれをデザインするまでは、もう十三年を待たねばならない。

 

 

Nellie Bly 2

Wikipediaより、ネリー・ブライ)

 


 落下着水の衝撃に、ドラム缶なら堪えたろう。手間は増えるが、回収して終わりに出来た。なんてことないトラブルだ。しかし木樽ではそうはいかない。あえなく砕け、中身がみるみる拡散される。汚染域に居合わせた、不運な魚類が次から次へと水面に浮いた。


 明治十九年六月の、横浜に於ける出来事である。


 それ自体は取り立てて騒ぐに及ばない。以前の記事でも少しく触れたが、港湾作業中の落下事故など毎日のように起きている。流出したのも原油ではなく石油に過ぎず、タンカー事故にあらずして所詮木樽の容量だ。汚染といっても、規模のたか・・は知れている。

 

 問題はむしろ、なんだなんだと三々五々に集ってきた見物人らの反応だった。


「あれをみろ」


 白い腹を晒して浮かぶ魚どもを指差して、誰かが頓狂にわめいたらしい。


「海水と舶来油を混ぜ合わせれば、斯くも苛烈な殺菌力を発揮する。さればよ、最近流行りの厄介至極な淋病も、この服薬でたちまち療治に相違なし」


 馬鹿げているにもほどがある。

 

 

(太平洋岸唯一の産油地、静岡県相良村

 


 彼の脳内でどういう衝突事故が起こってこんな解答こたえがまろび出たのかまったく理解に苦しむが、更に輪をかけて不可解なのが、彼の周囲の野次馬連も、


 ――もっともなことだ。


 と無批判にこれを受け入れて、


 ――この大発見、見逃す手はない。


 我も我もと石油汚染の海水を汲み取りだしたことである。


 嘘のような話だが、当時の『郵便報知』にもしっかり掲載されている点、信憑性はかなり高い。


 明治十九年にもなって。


 学制施行後、十四年も経ちながら。


 場所もあろうに、日本国の玄関口たる横浜で。


 なんだってこんな事件が起きる? ――福澤諭吉ならずとも顔を覆いたくなるだろう。

 

 

 


 森有礼が教育改革に力瘤を入れた動機についても、おのずと察せるというものだ。有礼といえば、この初代文部大臣の人柄を表す格好の逸話をちかごろ仕入れた。御当人の伝記からだ。

 

 金沢最初の高等学校設立の際、開校式にお呼ばれした有礼は、途中演説を求められ、やおら壇上に身を運び、

 


「新日本の文明は王政維新の結果である。王政維新は聖天子の御明徳によって成就されたのであるが、能く之をたすけ奉ったのは薩長の旧藩士である。ところが此加州の如きは、どうであるか、殆ど何等の貢献するところがないではないか。諸君考へても腑甲斐ないといふ感が起るであらう。茲に高等学校を新設したのは、ツマリ加州の人物をつくる為である」

 


 こんなことを喋ったという。


 型破りにも限度があろう。

 

 前途を祝いに行ったのか、喧嘩を売りに行ったのか、これではとんと分からない。


 実際問題、案の定、ぜんぶ言い終える前から既に方々より罵声続出、中でも金沢出身のとある武官は怒髪天を衝くあまりさっと帯剣を素っ破抜き、


「何をほざくか、失敬なッ」


 文部大臣を「無礼討ち」に処するべく走り出したほどだった。


 目賀田金沢連隊長が咄嗟に割って入らなければ、確実に殺っていただろう。

 

 

Castle - Ishikawa Gate

Wikipediaより、金沢城公園)

 


 誰より優れた行政手腕を持ちながら他人ひとの心を傷付けるのに無自覚で、世間の悪意が全身に、ハリネズミみたく突き立ちまくっている男。史上に類型を求めるならば、石田三成が該当しようか。


 こういうタイプは往々にして、天寿を全う出来ぬもの。


 道半ばにして斃される、その散り様がしかしまた、異様な感興を伴って後世に迎えられもする。


 本人がそれを喜ぶかどうかは知らないが、とりあえず、まあ、個性的であることだけは疑いがない。


 なお、ついでながら森有礼の定評に、「女子教育を重んじた」との一項がある。


 これに関して彼の直話を探ってみるに、なるほど確かに以下の如きが見出せる。

 


女子でも、国家の為めに身命をなげうつの覚悟が必要だ。従って、子供を教育するには、国家の為めに身命を致すの義心を養はなければならぬ。今試みに国家の為めに女子教育の精神を言ひ現すと、先づ学校で教場には、七八面の額を掲げて貰ひたい。それは、母が子供を教ふる図。丁年に達して軍隊に入る前に母に別るゝ図。困難に際し勇戦する図。忠子の報国母に達する図。ういふものを掲げて、愛国の精神を女子が感佩する丈けに教育した時が、始めて理想に達したものだ」

 

 

Mori Arinori, 1871

Wikipediaより、森有礼

 


 これもまた、森有礼為人ひととなりを知る上で、極めて重要な手がかりだろう。

 

 

 

 

 


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明治のNIMBY ―伝染病研究所が芝区に与えた波紋について―

 

 時は明治二十六年、芝区愛宕町の一角に伝染病研究所が建設されつつあった際。同区の地元住民が巻き起こしたる猛烈な反対運動は、わが国に於けるNIMBYニンビーの嚆矢と言い得るか。

 

 

芝公園増上寺

 


 NIMBY


 Not In My Backyardの頭文字から成立する概念だ。


ウチの裏庭に置かないで」の直訳通り、意味するところは「社会のため、公共のために必要な事業と知ってはいるが、それでも自分の居住地域でやって欲しくはない」という心理から来る、住民の姿勢一般である。


 つまりは横着の発露であろう。


 この事態を受け、福澤諭吉――伝染病研究所、ひいてはそこの所長たる北里柴三郎医学博士の、極めて有力な支援者だったこの人物の、掲げた意見が面白い。


 まさに文明と野蛮の激突である。

 


「…区民が反対の苦情を聞くに、区内に是種の研究所を設けらるゝときは、伝染病の患者は陸続こゝに集まりて其危険恐る可きのみならず、之が為めに近傍の営業商売に容易ならざる影響を蒙るに至る可しと云ふに外ならず」

 


 言わでもなことだが、『時事新報』を経営している福澤は、所信の披露に不都合はない。


 今回もまた思う存分やっているのが目に浮かぶ。

 

 

The Institute of Medical Science Tokyo Japan Medical Science Museum 20070127 0076

Wikipediaより、近代医科学記念館。伝染病研究所の外観を模す)

 


伝染病の名を聞て、其性質の如何を究めず、又その消毒法の有効無効を問はずして、只管これを恐るゝは、畢竟無智無識の然らしむる所にして、教育に乏しき区民の情を察すれば、自ずから恕する可きに似たれども

 


 と、むしろ反対住民の低知能を憐れんでやる、悠揚迫らざる態度をみせつつ、しかしながら行を重ねてゆくにつれ、

 


是等の反対者は何れも感情一偏に依頼して兎に角に其目的を達せんとするものなれば、之を処すること何分にも困難にして、当局者にしても多少の苦心なきを得ず」

 


 本来の心境、ずっと奥にしまった筈のどうにもならぬ不快さが、徐々に筆先ににじみだす。


 福澤諭吉は戦闘的な性格なのだ。


 適塾時代は学友どもと、赤穂浪士の是非をめぐってディスカッションを楽しんでいた彼である。事前のクジの結果によって擁護側と批難側とを分かつなど、そのやり方は相当以上に本格的なものだった。


 喧嘩を売られて黙っているほど腑抜けではない。インテリゲンチャの肩書きほど、福澤に似合わぬものはない」――と、遥かな後年、小泉信三が微笑と共に語った所以はそこに在る。

 

 

Tekijuku 01

Wikipediaより、適塾

 


「若しも一部分の人民の苦情の為めに従来の計画を変ずるに至るときは、其影響は各地方の衛生上に及びて無智の人民に口実を与へ、例へば現行のコレラ病予防の取締に就ても、石炭酸の臭気は病毒の媒介を為すものなりとか、又は緑礬ローハを便所に散布して糞色を変ぜしむれば肥料の効能を失ふものなりなど、種々の苦情を述ぶる其苦情の処分に困難を感ずる懸念もなしとせず

 


 いやに具体的な危機予測である。


 たぶん、おそらく、いや、きっと、草深い田舎の地方ではこういう類の迷信が、本当に行われていたのであろう。


 なんといっても、鼠害対策にチフス菌を団子に包むご時勢である。


 それを踏まえると、さして不思議とも思えない。

 


「一般の影響は兎も角として、差当り研究所の設置は一日も遅緩ならしむ可からざるの急要を認るものなり」

 


 とどのつまりは、これこそ福澤の結論だった。


 まさに名論卓説である。


 この種の騒ぎにどう対応すべきかの、亀鑑と呼ぶに相応しかろう。思い起こせば戦後しばらく、一九六〇年代に内之浦種子島にロケット発射施設を建造つくったときも、地元漁民が目の色変えて反対運動を起こしたものだ。

 

 

 


 政府は弱腰にも反対派の意見を聞き入れ、まるで無用な制限を施設に課さねばならなくなった。そうすることで辛うじて、彼らの機嫌を取り結んだ格好だった。


 彼ら、というも運動の本体は漁民ではなく、どうせアカがバックについて色々吹き込んだ結果だろうが。おかげでわが国の宇宙開発技術の進歩がずいぶん遅れたものである。


 ありがたいことに福澤は、こういう類の扇動者――「人間有益の事業を沮喪せしむる」輩を指すに、最適な言葉を案出してもくれている。


国家の害物、獅子身中の蟲、文明世界のバチルスというのだ。


 蓋し至当な評価であろう。

 

 

 

 

 


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風去りてのち ―品川霊場古松之怪―


 東京を尋常ならざる風雨が見舞った。


 明治十三年十月三日のことである。


 季節柄から考えて、おそらく台風だったのだろう。


 瓦は飛び、溝は溢れ、街のとっ散らかりようは二目と見られぬまでだった。


 品川区の霊場たる東海寺では、樹齢百年をゆう・・に超す松の古木が無惨に薙ぎ倒されている。


 それほどの嵐であったのだ。

 

 

 


 さて、それから五日後の夜。


 パトロール中の警官が異様なモノを発見している。


 台風の残した、意外な爪痕と言うべきか。


 場所はまさに先述した東海寺、横倒しに倒れたままの古松の附近。


 月光が生む淡い影だまりの中で、何かがもぞもぞ蠢いていた。


(すわ、妖怪――)


 場所といい時刻といい総合的な雰囲気といい、化けて出るには相応しすぎる状況である。


 原始的な恐怖感情に駆られた彼を、いったい誰が責められようか。

 

 

Toukaiji20100521

Wikipediaより、東海寺)

 


 が、それもほんの一瞬のこと。日頃の訓練、反射機能に追加された義務への服従精神が、巡査の志気を復活させた。


 意を決して近付けば、益体もない。


 按摩であった。


 干し柿みたく皴びてくすんだ顔の按摩が、湿った土に膝を立て、衣服の汚れも厭わずに、両手を動かし、体重をかけ、せっせと松を揉んでいる。


 その口元は半開きになり、涎とともに何かぶつぶつ、意味をなさない出来損ないの呟きばかりを垂れている。


(物狂いか)


 あるいは年齢から考えて、痴呆の類やもしれぬ。


 どっちにしろ、これなら下手な妖怪の方がまだしも始末が楽だった。


 さりとて彼の着ている制服は、放置を赦してくれないのである。どこぞの屋敷の座敷牢から脱走してきた隠居であれば、やがて通報が入るであろう。そういう事態に備える意味でも予め、署内で保護しておくべきだ。巡査はなるたけ穏やかに、眼前の肉塊に声を放った。


「――」


 が、一向に反応がない。


 老いた按摩は明らかに巡査の存在自体を無視し、松の幹を揉みほぐす、意味不明な運動律を繰り返していた。

 

 

 


 薄気味悪さと苛立ちとが相俟って、巡査の頸の血管が、どうしようもなく怒張する。


「おいっ」


 気付けば声を張り上げていた。

 大喝したといっていい。

 それを受け、按摩の身体が


 びくっ


 と跳ねた。

 電気でも通されたようだった。

 そこからの展開こそ異様であった。


「こ、ここは何処でございます、あっ、手が痛い」


 急に明晰な言語能力を取り戻した按摩はしかし、一秒前まで自分がやっていたことを、なにひとつ憶えていなかった。


 鱗みたいな松の樹皮を、思い切り撫でたり揉んだり指圧したりしていたのである。

 

 

 


 掌の皮膚は当然やぶれ、ぐさぐさに傷つき、淋漓と血が滴っていた。


 その事実にも、今更ながら気付いたらしい。あわれっぽく痛い痛いと、泣くような声でわめくのだ。


 その変化かわりよう。


 巡査は達磨みたいに目を剥いて、松の屍骸を見下ろさざるを得なかった。


(憑きやがったか)


 それ以外のどんな解釈も不可能である。思いがけなく強引に、生命を中途で断たれた松の、最後の思い出作りであろう。


 正気を奪われ、前後不覚の状態で妙技をふるわされた按摩こそ、いい面の皮ではあっただろうが。


 ともあれこれで松の霊が満足し、大人しく昇天してくれるのを、巡査は祈るばかりであった。


 それにつけても今回といい、先述した浅草寺の榎といい――明治初頭の東都の樹木、ひいてはそれらを成り立たせる大地には、いったい何が潜んでいたというのだろうか。


 まだ地下鉄の一本たりとて走っていない彼の時代。新体制を、文明開化を謳歌する人々の足下では、なにが。

 

 

 

 

 


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日本人と禁酒法 ―「高貴な実験」を眺めた人々―


 禁酒論者の言辞はまさに「画餅」の標本そのものである。


 一九二〇年一月十七日、合衆国にて「十八番目の改正」が効力を発揮するより以前。清教徒的潔癖さから酔いを齎す飲料を憎み、その廃絶を念願し、日夜運動に余念のなかった人々は、酒がどれほど心と体を痛めつける毒物か、懇々と説く一方で、酒なき社会がどのような変化を遂げるのか、未来予測の宣伝にも力瘤を入れていた。

 

 

National Prohibition Convention 1892

Wikipediaより、禁酒党の全国大会)

 


 曰く、「労働者が酒と絶縁することで、工場の能率は大いに上向き、米国の繁栄は更にスピードを増すだろう。しかのみならずその賃金を酒場で消費つかわず、家に持って帰るゆえ、家庭内不和は解消されて妻子の健康状態も改善されることになる」


 曰く、「酒が身近にあるうちは、自然これを呑むことが国民の習慣になりがちなのが、酒がまったく手に入らないとなると、次代を担う青少年に飲酒の習慣が根付かなく、あたら道を間違わずに済む。そうして酒のために失われる時間が減れば、犯罪率も下落の一途をたどりゆく」


 曰く何、曰く何――希望的観測と呼ぶことさえおこがましい、ようかんのハチミツ漬けみたような、こんな甘い見通しをよくまあ正気で発表できたものである。


 政権交代直前に民主党がバラ撒いた「地上の楽園」方式のグロテスクな広告や、小池百合子が得意顔でぶち上げた「七つのゼロ」を彷彿とする地にあしうらのつかなさだ。


 端的に、胸焼けせずにはいられない。

 

 

The Drunkard's Progress - Color

Wikipediaより、「大酒飲みの進歩」)

 


 果たして禁酒論者ら自身、どこまで本気でのたまっていたか不明だが。――いずれにせよ彼らの掲げた華美なる夢は、現実の巨腕に一撃されて跡形もなく消し飛んだ。消し飛び、潰えたということを、昭和五年の段階で既に、住江金之が闡明している。

 

 単なる嗜好のみならず、文化としての酒の価値を大いに認めるこの人は、その著書である『酒』の中にて、上に掲げた禁酒論者の綱領を虱潰しに潰すという、おそるべき試みを実現させた。


 青少年への影響は、

 


 禁酒前迄は学生仲間でも今日程酒が流行らなかったが、禁酒後は酒瓶を持ってあるくとか、飲むとかいふのが豪傑らしいといふわけで、却て流行となった。昨年ニューヨーク・ヘラルド新聞社で、全国のハイスクールの学生に就て調査したところでは、全く飲まない学生は僅かに一パーセントに過ぎなかった。(463頁)

 


 風紀もなにもありゃしない。

 

 禁止されると魅力が増すのは古今東西共通か。

 

 

 


 家庭への影響に関しては、まずフィリピンの主要紙たるマニラ・ブレティンに掲載された、

 


 ――禁酒が行われてから、男は家庭に於いて新しい居場所を占めるようになったと禁酒論者が主張するが、それはたぶん地下室のことだろう。

 


 とのあてこすり――地下室は密造に格好の場所――を皮切りに、更に続けて、

 


 密造流行になってから、子供婦人等の飲酒が殖えた事は一寸面白い現象である。今迄は酒場で飲んで居たのが、自宅で醸造する様になってから、味を試す為に、お前も飲んで見ろ、お前もといふ様なわけで、女子供みんな飲む様になった。(466~467頁)

 


 身も蓋もない現実を暴露している。


 ほかにも警察が押収した酒をこっそり裏で売っているとか、国境の外、カナダから、延々二十マイルに亘って続く密輸パイプが見つかったとか、メチルの混入まじった粗悪な密造ウイスキーを売り捌いた廉により、三十一社が起訴されて百五十六名の逮捕者が出たとか、にわかには信じられないような、驚愕の内容が重なってゆく。

 

 

(木材の輸送に偽装した酒の密輸)

 


宗教的倫理的動機から出発する立法といふものが、大凡如何なる結果を社会に及ぼすかといふ一個の生きたる教訓として、米国の禁酒法は永久に社会問題研究者の振り返るべき史実である。ほぼ同時期に、鶴見祐輔も言っていた。

 

 妥当な評価であったろう。


 アメリカ人にはどういうわけか、みずから進んで暗黒時代を製造したがる癖がある。宿痾の類だ。ここ二・三年のあいだにも、ちらほらそんな兆候が見え隠れしてはいないだろうか。


 アメリカのやることだから、向こうで流行っているからと盲目的に追随するのは非常に危うい。精査が要るのだ、当然ながら。

 

 

5 Prohibition Disposal(9)

Wikipediaより、禁酒法時代、下水道に廃棄される密造酒)

 


 アメリカといふ国は、不思議な国である。「とてつもなく莫迦らしい国だ」と思ふ事さへある。そして、日本がこの莫迦らしい国の一層莫迦らしい猿にまで進化するであらうといふのが、悲しいかな、今や私の確信とならうとしつつある。

 


 これは生田春月の言葉。


 そういえば彼の父親は酒造りが生業だった。腕前は見るべきものがあったが、いかんせん、経営面で失敗し、惨憺たる貧窮の中で悶死した。

 

 

失敗商人の子で
失敗詩人

 


 と、それを自嘲した詩もある。

 

 

 

 

 


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ある汁粉屋の死 ―浅草観音老木之怪―


 北村某は汁粉屋である。


 立地はいい。浅草観音の裏手に於いて、客に甘味を出していた。

 

 

 


 店の敷地に榎の枝が伸びている。


 根元は塀の向こう側、寺の境内こそである。


 樹齢は古い。幹は苔むし、うろ・・となり、それでも季節のめぐりに合わせて艶やかな葉を繁らせる。老樹は確かに、生きていた。


 ――この書き方だとなにやら霊験あらたかな、加護なり恩寵なりを恵んでくれそうな雰囲気であるが、現実にはさにあらず。むしろ厄介こそを運んだ。


 蛇の通り道なのである。

 

 

Celtis sinensis (9527821093)

Wikipediaより、榎)

 


 ある時分から根元周辺、さもなければうろ・・の内部にねぐらを定めやがったらしい。幹を遡上し、枝を伝って、かなりの頻度でこの爬虫類が落ちてきて、庭を徘徊、客に悲鳴を上げさせる。そういうことが幾度となく重なった。


 店主にすれば、営業妨害の極みであろう。


(今に見ていろ)


 挽き切ってやると鋸片手に思案はすれど、さりとて浄域の土から精を吸い上げている植物だけに、あまり迂闊に乱暴な手に出過ぎると後の始末がおそろしい。


 ――祟るのではないか。


 という薄気味悪さが北村の脳裏を離れないのだ。


 幸い知己に修験者がいる。


 月山の霊気を五臓六腑に滲み渡らせたと自称する、この男に加持を頼んだ。


 幽明の秘法を駆使することで老樹の霊と交信し、その身に刃を入れる合意をどうにか取り付けてもらうのだ。


「お安い御用だ」


 胸を叩いて承諾したのは、北村の提示した謝礼の額が通り相場を若干なれども上回っていたからだろう。

 

 

立石光正DSCF0451

Wikipediaより、修行中の修験者)

 


 にしても、なんだな、こんな胡散臭い野郎ではなく、浅草寺の僧にこそ、まず真っ先に話を通すべきではないか。連中の責任を口やかましく追及し、格安で数珠をひねくらせれば、いやいっそのこと蛇公退治をやらせればいい。第三者の視点に立てば、そういう感想がおのずと浮かぶ。


 しかしながらこの事態の背景は、令和どころか平成、昭和ですらない。大正の更にもうひとつ前、明治七年なのである。


 百五十年も隔てられれば、社会常識、通則、規範、すべてが違う。下火になりつつあるとはいえど、廃仏毀釈の最中でもある。北村の措置はさして奇抜でなかったようだ。


 儀式が済んだ。

 

 

 


 北村は人変りしたかと思うほど晴れ晴れした顔つきで、目障りな枝を払い落した。腰のあたりの鬱血が一挙に散じた気分であった。


 が、本当に散じつつあったのは、彼の魂魄こそらしい。


 その夜、北村は早く寝た。胸の奥にざわめきがある。これまで感じた憶えのない不快さだった。


(眠ることだ)


 意識がない間の回復力に期待してさっさと布団にくるまったのだが、残念無念、そうは問屋が卸さない。容態はむしろ悪化した。翌朝にはもう、自力歩行も覚束なくなっていた。


(こ、これはまずいぞ、まずすぎる。どう考えても、この現象はッ!)


 そのまま床の中にて衰弱し、十日目には死体になった。「ぽっくり」としか言いようがない。嘘のような容易さだった。親類縁者は、


 ――さてこそ榎の祟りなり。


 と、声をひそめて言い合った。

 

 

 


 が、祟り云々よりも気にかかるのは、例の修験者の反応である。


 仰々しい祈祷をやって、これで安心伐るも焼くも存分に召されよと太鼓判を押しながら、かかる悲境に依頼人を陥れたわけであるから責任の一端ぐらいは追及されてもよさげなもんだ。


 ――謝礼の金子、耳揃えて持ってきやがれ、墓前に供えろ、イカサマ野郎ッッ


 そういう罵倒が遺族の中から飛んでいい。


 胸ぐら掴んで詰め寄って、法廷を舞台に切った張ったが展開されるべきだろう。


 ところが理屈と実際はいよいよ離れているとみえ、当時の記録をいくら漁れど該当し得る痕跡がない。運命なり不可抗力なりと諦めたとしか思えない。あるいは請求しようにも、修験者の方に先手を打たれて雲を霞と逃げ去られたか。


 いっそ北村に先駈けて樹の祟りに呑まれていたと考えれば――いや、流石にこれは不謹慎が過ぎようか?

 


 山は遭難がないと箔がつかないやうである。蔵王なども昭和七、八年頃から遭難がいくつも続いたので、忽ち有名になり、また冬山としての魅力ももつやうになって来たやうである。夏の休みには峨々が何百人といふ人であふれたりしたのも、遭難が人を招んだやうなものといへよう。

 刈田から賽の磧へ降りてくると、吹く風に揺らぎながら幾本もの塔婆が、クラストした雪原に淋しく立ってゐる。仙台二中生が遭難したときのものだ。あそこへ来ると、何となく体の引締まるのを覚える。

 


 東北帝大法文教授が、地位も名誉も完備した中川善之助ほどの男が、臆面もなく堂々と、こういう意見を紙上に述べて誰も不審に思わなかったかつて・・・とは、繰り言になるがすべての事情が違うのである。

 

 

Yamagata-zao ski 1 (200712)

Wikipediaより、蔵王温泉スキー場

 


 口は禍の元との古諺は、こんにちますます切実だ。


 発言には慎重を期さねばならぬ。


 しかしそうして多方面に気兼ねするほど、肝心要の面白味というものが、どんどん文から抜けてゆく。


 あちらを立てればこちらが立たずの典型だ。ああ悩ましくまた同時に度し難い。

 

 

 

 

 


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九州の熊、月の輪の呪詛 ―古狩人の置き土産―


 天性の狩人と呼ぶに足る。


 猪の下顎、つるりと綺麗に白骨化したその部位を、所蔵すること二百以上、特に形の優れたやつは座敷の欄間にずらりと架けて雰囲気作りのインテリアにする、そういう家に生まれ育った影響か。


 久連子村の平盛さんは、ほとんど物心つくと同時に「狩り」に異様な魅力を感じ、黒光りする猟銃に憧憬あこがれを募らせた人だった。

 

 

PigSkelLyd2

Wikipediaより、猪の骨格)

 


 久連子村。


 くれこむらと読む。


 独特な風韻を帯びた名だ。こういう響きは、平地よりも山里にこそよく似合う。果たせるかな、久連子村の所在地は秘境と呼ぶに相応しい。九州中央山地の西部、人煙稀なる山また山の奥深く、平家の落ち武者伝説を発祥に持つと言われても誰も疑問に思わない、かなりメジャーな「隠れ里」――「五家荘」を構成する一聚落。それが久連子村の概要あらましだった。

 

 

(五家荘小原の部落)

 


 鳥や魚の死体を海中に吊下ちょうかして置けば、数時間乃至十数時間中に綺麗にその肉質部のみを食尽し去る。また熊の頭部などを二〇メートル余の海中に吊下せば、数日間に頭蓋骨のみが残されて、有機物は微塵だも遺留されない。生物学者はしばしばこの方法でもって動物の骨格標本を仕上げたものである。

 


 と、田中阿歌麿なぞが書いたものだが、しかし海から程遠く、流れといえば谷川ばかりな久連子村ではこの方法は使えまい。埋めたか、煮たか――いずれにせよ格段に時間を要しただろう。


 それを実に、二百以上も。このコレクションには執念が在る。先祖代々、狩人の家系であってこそ達成し得る集積だろう。


 平盛氏の父親も、それはそれは腕っこきのハンターだった。久連子どころか、五家荘全体で数えても屈指の技量の持ち主だった。その父親が息子に対し、これだけは決して背くなと訓戒したことがある。


「狩りをするのは結構なことだ。しかし熊ばかりは進んで獲るな」


 山の掟といっていい。

 

 

(五家荘の吊橋)

 


 理由については、


「熊を獲るには月の輪を撃たねばならないが、それをすると自分はよくとも家族に難儀が降りかかる。不具の子が生まれやすくなる」


 土くさい迷信に基いたもの。


 似たような観念は、日本各地の山峡にうずまっている。


 父は更に語を継いで、


「だがしかし、熊の側から向かって来るなら話はべつだ。この場合は、狩人の意地にかけてもぶち殺せ


「例外事項」を付け加えるのを忘れなかった。


 秋霜の如き苛烈さである。


 以上の教えを説いてから、さまで合間を空けずして、父なる人は世を去った。黄泉こうせんの客となる前の、今生最後の置き土産のようだった。

 

 

Ursus thibetanus 3 (Wroclaw zoo)

Wikipediaより、ツキノワグマ

 


 ついここまで書きそびれたが、一連の話は昭和十年代後半に、民族学者の早川孝太郎が五家荘を訪問し、平盛氏に誼を通じて試みたインタビューに由っている。ゆえ、九州の熊は絶滅前で、久連子村の狩人がそれを撃つのも可能だったというわけだ。


 フィールドワークの成果として、早川は他にこんな報告も寄せている。

 


 熊は殺してから横にして置くと、胆が流れてしまふとは、遥かに東国の三河遠江などの狩人の間にも語られて居るが、五箇ノ荘にも同じ説がある。もう六十余年も前に、久連子で一頭の熊を捕った時に、商人の来る迄の間、胆が流れると云って、梯子に前後の肢を括りつけて、恰もはりつけになった者のやうにして立たせて置いた。これは今年九十二歳の老媼の実見談である。

 

 

 

 

 


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赤い国へ ―鶴見祐輔、ソヴィエトに立つ―


 革命直後のペテルブルグでとみに流行った「遊び」がある。


 凍結したネヴァ河の上で行う「遊び」だ。


 それはまず、氷を切って下の流れを露出させることから始まる。

 

 

(冬のネヴァ河)

 


 これだけ聞くとワカサギでも釣るみたいだが、しかし穴の規模はずっと大きく、また釣り竿も使わない。


 やがて「玩具」が運ばれてくる。「玩具」とはつまり、帝政時代の富豪や貴族、将校、僧侶――まあ要するに、ツァーリの下で甘い汁を吸いまくっていた連中だ。


 こいつらを穴の中に放り込み、溺死に至る一部始終――悲鳴を上げて苦しみ藻掻く有り様をにやにや笑って眺めるのが、つまりは「遊び」の正体だった。


 チェキストでもなんでもない、ただの民衆がこれをやるのだ。


 やって、享楽に耽るのだ。


 毎日のように。


 常軌を逸した光景であろう。


 しかしながら将軍の娘というだけで、十二歳の少女が処刑場に牽き出され、弾丸のシャワーを浴びせられるのも茶飯事だったかの時代。裏通りをちょっと覗けば、肩の肉に直接徽章を縫い付けられた士官の死体がゴロゴロしていたかの時代。正気と狂気の境界は極めて曖昧模糊であり、誰も彼もが気付かぬうちに越えてはいけない一線を背後にしている状態であり、つまるところは何が起きてもおかしくはない「場」であった――成立直後の赤色ロシア、ソヴィエト連邦という国は。

 

 

クレムリン

 


 うろおぼえだが、ダークナイト ライジング』の終盤にも似たような展開があったと思う。死刑判決を宣告された人々が、凍結した河の上を――人間一個の体重を支え切るには、頼りなさすぎる程度の氷を――対岸まで渡らされる展開が。


 占領期の米兵も、よく行きずりの日本人を橋から河に投げ落としては殺したし、向こう西洋にはそういう文化でもあるのだろうか? つまりは河を処刑器具に擬したがる、といったような。

 

 まあ、それはいい。


 自由主義者で人情家、新渡戸稲造の忠実な弟子、くだんの鶴見祐輔の発した言に、以下の如きものがある。

 

 

 征服者と被征服者との生活の相違、それは劫初以来人類の繰り返してきた歴史だ。さうして征服者が栄華に慣れて心身ともに退化してゆくと、今度は今までの被征服者に征服されてゆく。ただ被征服者はあまりに永い忍従刻苦の生活のために、明るい日を見ることのできないやうな眼になってゐることがある。さうすると、その被征服者の反逆は、より善き社会を作らずして、より暗黒なる社会を作る。

 


 いみじくもロシア人たちは、この発言の正当性を保証した形になるのであろう。

 

 

 


 あるいは鶴見祐輔自身、少なからずそれ・・を意識したやもしれぬ。


 なんとなれば如上の言が示されたのは、モスクワ探訪後の彼によってであるからだ。


 時あたかも昭和七年、西暦にして一九三二年。鶴見はソ連に入国している。空路によって、首都近郊に降りたのだ。


 革命からしばらく経って一応の安定に到達したモスクワは、

 


 旅人は、この町の中に入った瞬間から、ある強い圧力を総身に意識する。自分は誰かに凝視されてゐる、といふ感じが、絶えず重苦しく頭の上を抑へてゐる。全身を縛ってゐる。心を警戒してゐる。強い政府の下に来てゐるといふ感じが、犇々と迫ってくる。旅人ですらさうなのだ。町の人の夜昼受けてゐる圧力は、どんなに重苦しいものだらう。
 その圧力は、投獄と死刑とシベリアへの流罪の外に、餓死といふことだ。食券をもって日々の生命を支へてゐる人々は、いつも餓死線上に立ってゐる。一歩誤れば、劇しい餓との闘ひだ。大勢の人が行列してパン屋の前へ立ってゐる。

 


 斯くの如き印象を、鶴見の心に与えたそうな。

 

 

赤の広場

 


 要約すれば「陰惨」である。世人が「ソ連」の二文字から連想する内容と、そう距離を隔てたものでない。


 折しもこの一九三二年は、ウクライナにて空前の、悪夢の如き大飢饉――ホロドモールの幕が開いた年だった。

 

 

 

 

 


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