穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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毛生え薬とエリート官僚 ―倉知鉄吉、ドイツでの瑕疵―

 

「禿頭予防・最先端の毛生え治療」――。


 斯くも胡乱な看板に、倉知鉄吉ともあろう男がまんまと引っかかったのは、若さと、そこがドイツだったからだろう。

 

 

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ライン河畔の眺め)

 


 当時倉知は二十八歳。ドイツの日本公使館に二等書記官の身分で属し、キャリアを積み重ねている最中。カルテといえばドイツ語という先入主がある通り、日本にとって近代医学の卸元はドイツである。


 つまりは「本家」。神々しいその雰囲気に、東京帝大法科大学英法科卒の、この超エリートですら幻惑された。現実にはドイツの医者にもピンからキリまで、名医もヤブもごく当たり前に居るというのに。

  

 

Kurachi tetsukichi

Wikipediaより、外務官僚時代の倉知鉄吉) 

 


 果たしてこれを「治療」と呼んでいいのか、どうか。


 門戸を潜った倉知を待っていた処置は、あからさまに形式だけの診察と、よくわからない軟膏をどっさり頭皮に塗られるという事態であった。

 

 当人の言葉を参照すれば「チャコールかペンキの如き」感触だったそうであり、もうこの時点で嫌な予感がひしひしとする。


 そんなものを満載した状態で、椅子に腰掛け、安静にするよう命じられた。


 暫くの後、


 ――もうよろしかろう。


 薬は十分滲み込んだということで、頭を洗い流してみると、こはいかに。毛生えどころか、却って髪がどんどん抜ける。配管を詰まらせかねないその勢いに、流石に恐怖がせき上げて、


「話が違うではないか」


 と詰め寄ると、


「ご案じめさるな、不良な髪が抜けた先から、新しく優良な毛髪がわんさ・・・と生え出す仕組みです」


 その質問は聞き飽きてると言わんばかりに。


 無感動な調子でもって断言されると、つい倉知の中でも


(そんなものか)


 なにやら腑に落ちたような気分が芽生え、抗議の意志が萎えてしまった。


 が、現実は残酷である。


 医者はやはり、ヤブだった。


 転ばぬ先の杖と掴んだ木の棒は、どっこい蛇の尾であった。


 春を迎えた野の如く、倉知のあたまに生命が芽吹くことはなく。荒涼たる曠野ばかりがただ残された。


「返す返すも痛恨である。魔が差したとしか言いようがない。あのような詐欺に引っかかっていなければ、きっと、今頃、もう少し――」


 若さゆえの過ちを、倉知は後年、溜息混じりに述懐している。

 

 

Kurachi Tetsukichi

 (Wikipediaより、倉知鉄吉)

 


 ときに賢愚の垣根を超えて。エセ科学に惑わされるのは、人類の宿痾なのかもしれない。

 

 

 

 

 


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石川千代松、危機一髪 ―「ジラフ」を「キリン」と名付けた男―


 慶応三年夏の夜、江戸の街に辻斬りが出た。


 薬研堀の一角で、縁日帰りの親子連れを斬ろうとしたものである。


 すれ違いざま刀の柄に手をかけて、胴を払おうとしたらしい。鞘走る音を、子供の耳は確かに聴いた。

 

 

Yagenborimachi

 (Wikipediaより、薬研堀

 


 ここでらしい・・・と書いたのは、兇漢の動作が中途で阻まれたがゆえだ。彼が刀を抜ききるよりも、父親の方が早かった。杖代わりにいていた竹の棒が弧を描き、不心得者の二の腕をしたたかに打ちすえていたのである。


 竹とはいえ、中に鉄の芯を入れ、強度を増した代物だ。


 木刀程度の攻撃力はもっている。


「ぎゃっ」


 という悲鳴こそ上げないものの、辻斬りの姿勢は大きく崩れ、そのまま彼方に逃げ去った。


 もしもこの時、父の反射が一秒でも遅れていれば、きっといまごろ「キリン」は「キリン」でなかっただろう。


 なんとなればこの少年こそ、やがて「ジラフ」の和名を「キリン」と定める動物学者、石川千代松その人ゆえに。


 父の名前は石川潮叟勘定奉行外国奉行支配組頭等を務めた堂々たる幕臣である。

  

 

Chiyomatsu Ishikawa (2)

 (Wikipediaより、石川千代松)

 

 

 勝海舟とは互いに「竹馬の友」と相許し合う関係で、そのつながりから維新回天の変革期には色々と頼まれ仕事を請け負った。


 だからもしかするとこの辻斬りも実は単なる辻斬りでなく、明確に潮叟ひとりに狙いを絞った暗殺者だったやもしれず、そうなるといよいよ彼の所業が神技の域にさしかかる。


 後年、明治も十余年を過ぎてから。石川千代松は勝海舟加納治五郎の道場にて対面し、「お前の親父は文武の芸では何れも自分より一段上だった」と聞かされたそうだが、納得以外になかっただろう。居合の「出」を、しかも杖で潰すなど、どう考えても尋常一様の沙汰でない。まず間違いなく、先々の先をとっていた。


 敵対者の脳波というか、気の起こりを見越して動く、ほとんど予知能力めいた武術の深奥。むろん幼い千代松に、そこまでこみいった知識はない。ないが、しかし彼も雄である。


(凄え。……)


 男の本能としかいいようのない領域で、その途轍もなさを実感していた。


 父への尊敬、己が血統を誇る心が明確に形となったのは、おそらくこの夜からだろう。


 千代松の息子――これは欣一と名付けられ、成長するに従ってめざましい文才を発揮して、優れた随筆を多々残したが、その中にこんな一節がある。

 


 一体僕のおやぢといふのは、動物学者で、英独仏の三ヶ国語がよく分り、そして世界知識に通じてゐたいい人間だったが――(親馬鹿といふ言葉はあるけど、子馬鹿といふ言葉はない。僕は子馬鹿か知ら。さうかもしれないが、鮎を調べたいばかりに台湾まで行き、肺炎になり、死ぬ直前の譫言にまで鮎のことをいってゐたおやぢのことを考へると、世の中には、何と僕をはじめ、あるひは僕を最後とする、コクツブシが沢山いることよ! と嘆かざるを得ない)――要するに、こんな人間でありながら、ある時、僕に関してある事が起った時、憤然として薩長の野郎どもが何だ!」とどなったことがある。(昭和十一年発行『随筆 ひとむかし』6頁)

 

 

Ishikawa Kin'ichi

 (Wikipediaより、石川欣一

 


 また別の機会に於いて千代松は、この倅から「うちの先祖は御家人ですか」と訊ねられるや、みるみる顔を充血させて、


「馬鹿なことを言うな、うちの先祖は旗本で、布衣以上というんだ」


 大喝一声、雷を落としてのけている。


 時代錯誤と謗られかねない、そんな挙動の数々を、息子はしかし、「これは我々にとっては甚だ滑稽な言葉だが、九つの時に御維新が起り、巣鴨大根畑の家の畳をあげて山の形におき、その中にすくんで錦布きんきれの弾丸をふせいだといふ経験を持つ老人としては……」と、あくまで愛を以って眺めたものだ。

 

 

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(明治三十年前後の墨堤)

 


 三代続けて傑物を生んだ血筋というのは、ちょっと珍しくはなかろうか。


 そんな思考が、ふと湧いた。

 

 

 

 

 

 
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国家の消長 ―かつて日本は広かった―


 古書を味読していると思わぬ齟齬にぶちあたり、はてなと首を傾げることが偶にある。


 最近ではオーストラリアの総面積を「日本のおよそ十一倍」と説明している本があり、ページをめくる指の動きを止められた。


 ――いやいや、かの濠洲が、そんなに狭いわけがなかろう。


 相手は仮にも大陸ひとつを丸ごと領有している国家。学生時代に地理の授業で学んだっきり、うろ覚えだが、本邦比較で二十倍はあったはず。

 

 

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(濠洲に於ける放牧風景)

 


 この間違いはどこから来たのか。誤植を疑い、測量技術に思いを馳せて――それから漸く気がついた。


 何のことはない、広かったのは日本の方だ。


 台湾、朝鮮、南樺太――明治維新以後手に入れた新領土を合わせれば、オーストラリア大陸の十一分の一程度には達するのだろう。


 逆に言うなら日本国は敗戦で、一気にその面積を半分近く削られたということになる。


 これに関して、興味深い言を残したのが田倉八郎


 シベリア抑留からの帰還者である。


 五十代という高齢ゆえか、それとも軍属ではなかったからか。ともあれ田倉は二年弱にて帰国を許され、収容所から解き放たれた。


 さりとて本人主観にしてみれば、二十年も過ぎたような気がしただろう。

 

 

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 終わりなき悪夢からやっとのことで脱出し得た彼の瞳に、祖国の姿はどう映ったか。


 手放しの歓喜、安心ではあり得なかった。

 


 出かける頃は北はアリューシャンから南はソロモンの島まで広茫幾千里が日本の勢力下にあるかに見えたが、帰って来たときには、大やしまの四つの島が裸にされて、太平洋の波に洗はれながら、孤影悄然、今にも風邪を引きやせぬかと案ぜられるやうな姿になってゐた。(昭和二十四年発行『赤塔 シベリア抑留六四〇日』119頁)

 


 あの生き地獄に閉じ込められて、


 しかも何の罪咎もなく、敗戦国の民という、ただそれだけの理由によって閉じ込められて、


 思い出すだに冷汗淋漓と背筋を濡らす、艱難辛苦の限りを嘗めて、


 それでもなお、故国の岸を目の当たりにしていの一番に浮かぶ想念がこれ・・な点、本当に人間ができている。


 私のような戦後生まれにしてみれば、すっかり見馴れて別段どういう感慨も湧かない日本地図も、戦前活躍した人々には、無理矢理衣をひきむしられて寒風突き刺す修羅の巷に叩き出された愛児のような、哀切を惹起せずにはいられない、そういう対象として視えたのだろう。


 こればっかりは実際に指摘されねばわからない、想定外の発想だった。

 

 

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 田倉八郎はまた豊かな歌ごころの持ち主で、抑留中にも多くの句を詠んでいる。


 本人曰く「地球上の土地が人間でいっぱいになったときに、最後に住むべきやうな、いやな異国の丘」に繋がれた身でありながら、よくぞここまで瑞々しい感受性を保てたと、脱帽したくなる名句ばかりだ。


 せっかくなので、幾つか抜き出させてもらう。

 

 

北国の
深雪の駅に
降り立ちぬ

寒灯や
非人情なる
兵の影

菊もなく
日の丸もなき
明治節

木枯に
吹き研がれたる
夜半の月
 
 

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鶴見祐輔撮影、雪深いロシアの農村)
 

冬の蠅
命の尽くる
ところまで

厳寒に
眠り難きか
君端座

鉄柵に
とり囲まれて
紀元節

「銃殺」の
札に吹雪の
へばりつき

閑古鳥
啼く裏山が
君の墓所

春愁や
汽車の消えゆく
地平線

 

 

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 今年もまた、八月十五日がやってくる。


 蝉時雨を貫き響くサイレンが――。

 

 

 

 

 


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猛獣小話 ―百獣の王の称号は―


 豹は軽躁、獅子は泰然、虎は両者の中間あたり。


 上野動物園の常連客、長與善郎が多年に亘る観察の末、ついに会得した智識であった。


 古今を通じて動物園の花形たるを失わぬ猛獣三者。同じネコ科に属していながら、しかし性格の面に於いてはずいぶんな差異があるようで。それがいちばん顕著にあらわれるのは、「やはりめし時こそである」と、この白樺派著作家は言う。


 試みに、彼らの檻にウサギ肉を投げ込んでみよ。


 豹は途端に騒ぎだす。それも当のウサギ肉はそっちのけにして、まずは檻の周囲に群がる人間どもへ威嚇を行う。

 

 

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 なんだてめえら、俺の肉を横取りする気か、上等じゃねえかやれるもんならやってみやがれ、伸ばしたその腕、すかさず千切って追加の一品にしてやらアと言わんばかりに。「鉄柵に飛びつき、獅咬みつき、猛り狂って人を威嚇する様は、実に浅間しいほどの疑ひ深さで、耳は怒れる猫のやうに背後へぺたりと折れ返り、顔中が爛々たる眼と口ばかりになり、体の格好までが弱い癖に兇悪な犬の狂ってゐる時のやうな醜い姿になる」。(昭和九年『自然とともに』24~25頁)

 
 この狂騒が少なくとも十分は続くというから大変だ。見応えはあるが、それ以上に圧倒されて辟易する思いがしよう。


 もまた、いきなり肉に喰いつかず、まず人間への牽制に努める。


 ただしこちらは豹に較べてよほどあっさりしたもので、劈頭一番、腹の底から地響きするような咆哮を浴びせて、それで終いだ。鉄柵を揺らしも咬みつきもしない。能事足れりと言わんばかりに肉を咥えて隅の方まで持ってゆき、後は静かに、ゆっくり味わう。

 

 

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 これが獅子の場合になると、流石は百獣の王というべきか。はじめから人間如き相手にもしない。眼中あってなきが如し、敵と看做していないのだ。ちょうどヘビー級プロボクサーが、幼稚園児の集団を脅威と看做さないように。


 だから吼える必要も、隅まで運ぶ手間も挟まず、「只まっしぐらにのそっと餌に躍りかかって抱きかゝへ、嬉しそうに尻っ尾で床を叩きながら齧り出すのである。(中略)踞んだ獅子が兎を大事さうに両前肢の間にかゝへて顔をこすりつけるやうにして啖ってゐる様は一種美事でさへある」(25~26頁)。


 愛嬌あり、威厳あり。やはり王の称号は、ライオンにこそ相応しい。

 

 

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 以上の如き長與善郎の観察は、上野動物園に奉職すること四十年、当施設の名物男・黒川義太郎の所見ともだいたいに於いて一致する。

 


…子供がそろそろ肉類を喰べるやうになった時、肉類や牛乳を与へますと、獅子の母親は子供に先へ飲食させてから残った分を後から喰べますが、豹の母親はこれと反対で、飲食物を与へられると、母親の方が先に飲食をする。若しも子供が母親の傍へ寄って、その一部分を喰べようとすると、母親は歯を剥き出して、子供を威嚇します、(『動物談叢』128頁)

 


 この人はこの人で豹のことを「オッチョコチョイ」とか「動物の中でも一番始末の悪い奴」とか、なかなか辛辣な筆ぶりで、彼ら固有の性質軽躁さにさんざ手古摺らされたのだろうと苦労の跡が見てとれる。

 

 

 

 

 


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小作争議の内幕 ―ストライキを美化するなかれ―

 

 

 ――何事でも、その内幕を知ってゐると、それに対する信用が半減される。

 


『知らねばならぬ 今日の重要知識』の序文にて、志賀哲郎はいみじくも言った。


 蓋し至言といっていい。


 例えばこの私にも、「小作争議」を弱者の必死の抵抗と、追い詰められ、虐め抜かれた挙句の果てに立ち上がるのを余儀なくされた、さても健気な行為だと、そのように認識していた時分があった。


 が、歳を経て、古書を読み解き、詳細な手法を知るにつれ、そのような甘い考えは木っ端微塵に粉砕された。地主も大概だが、小作人も同様に、否、下手をすれば地主以上にろくでもない。


 なんといってもこの連中は、平気で暴力に訴える。闇討ちを辞さないどころか好き好んで多用する。それも同じ境遇の、小作人に対してである。

 

 

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(『Ghost of Tsushima』より)

 


 順を追って説明しよう。

 

 争議を起こされ、耕すものが失せた田畑を、ただいたずらに手を拱いて荒れるに任せ、呆然と眺めているほどに、地主というのは無能ではない。


 ――今までのが使い物にならなくなった? ああそうか、それじゃあ他所から補おう。


 幸か不幸か、貧乏人の子沢山。労働力はそこいらじゅうの村里集落にタブついている。代わりを探すにワケはないのだ。


 で、うまく話がまとまって、新たな小作がやって来る。


 争議中の小作にとって、これほど目障りな存在はない。あの手この手でその働きを妨害し、元の巣穴に逃げ戻るよう差し向ける。夜中迂闊に一人歩きをしようものなら闇討ちされて袋叩きの目に遭うし、せっかく田圃に水を張っても勝手に落とされ、植付の時期を逃すのはザラ。


 耕し終えてドロドロになった田の中へ、針をどっさりバラ撒かれる事例もあった。


 むろん、危なっかしくてとても入れたものでない。


 泣く泣く田圃を埋め立てて、果樹を植えても今度はそれを引っこ抜かれる。


 同じ小作の身であるだけに、何をどうすれば努力が徒労に帰するのか、よく心得ているわけだ。

 


 ――階級闘争といひながら、同階級の労働者に一番迷惑をかけて、何が階級闘争

 


 杉村楚人冠の啖呵が耳の奥で木霊する。

 

 

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九十九里平野横芝町付近の沼田)

 


 子供を積極的に利用するに至っては目も当てられない。


 争議の間、小作人の子供らは学校に行くのを親から禁じられるのだ。このようにして校長あたりを焦らしめ、仲介の労に当たらせるのが目的である。出席歩合が低下すれば教員の評価にも響く以上、彼らも必死だ。それを狙う。


 子供の未来、可能性に傷が付こうと一向構わぬ、なに必要経費の類よと平気の平左で澄ましていられる精神性は、現代の左翼活動家にも相通ずるところがあって、それだけでもう小作側への同情が失せる。


 ああ、上野陽一は正しかった。

 


 もっと月給をくれないと、働かネエゾというのが、ストライキである。ストライキまでもっていかなければならなくなるのは、頭のわるいためか、根性がわるいためか、でなければ若者のワイワイ気分のためか、いずれにしても、ホメタはなしではない。(昭和二十八年『一日一話 能率365日』127頁)

 

 

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(長野県青木湖畔の村落)

 


 今でもときどき、学生運動に参加した過去を誇らしげに語る年配者に出くわすが、冗談ではない。辟易のあまり、その手柄顔に味噌汁でも浴びせかけてやりたくなるのだ。


 彼らには是非、日本能率学の父の言葉を骨に徹るまで味わって欲しい。

 

 

 

 

 


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支えと為すは


 停滞からの脱出法は人それぞれだ。


 なんべん書き直してみせたところで出来上がるのはつまらぬ文章、まるで実感の籠もらぬ表現。記事作製が遅々として進まぬ窮地に陥り、自己嫌悪が募ってくると、私はいっそ腰を上げ、モニタを離れて部屋の中をぐるぐる歩きまわるようにしている。


 ゲーテに範を取ったやり方だ。


 左様、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

 

 

Johann Heinrich Wilhelm Tischbein - Goethe in der roemischen Campagna

 (Wikipediaより、ローマ近郊に於けるゲーテの肖像)

 


 ドイツを代表するかの文豪は、あるとき日記にこう書きつけた。曰く、「最上の考えの浮かんでくるのは、大抵散歩しているときである、表現のしかたでさえ、いい考えは歩いているとき浮かんでくる」と。


 なるほど確かに直立二足歩行とは、人類だけがこれを能くする運動だ。言語をあやつる能力もまた、人間のみに許された――少なくとも、現段階の地球上では――大特権。


 同じ「特別」であるのなら、どこかで繋がっていてもおかしくはない。片方を活発に行えば、もう片方もきっと活性化するだろう――そんな風に理屈を捏ね上げ、自分を騙し、内心藁にも縋る思いで始めてみた習慣だったが、なかなかどうして、これが効くのだ。


 三十分、頭を抱えてどうにもならなかった問題が、ものの三分の歩行によって呆気なく解きほぐされることもある。


 ひらめきを得るのだ、電球が点灯するように。

 

 

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 私の肖る古人の智慧は、ひとりゲーテにとどまらず。


 吉村冬彦の随筆論にも、多大な援けを受けている。

 


 随筆は思ったことを書きさへすればよいのであるから、その思ったことがどれ程他愛のないことであっても、又その考がどんなに間違った考であっても、ただ本当にさう思ったことをその通り忠実に書いてありさへすればその随筆の随筆としての真実性に欠陥はない筈である。それで、間違ったことが書いてあれば、読者はそれによってその筆者がさういふ間違ったことを考へてゐるといふ、つまらない事実であるが兎に角一つの事実を認識すればそれで済むのである。国定教科書の内容に間違ひのある場合とは余程わけがちがふのではないかと思はれる。(昭和十年『蛍光板』181頁)

 


 随筆は随筆、学術論文を書こうってわけじゃあないんだから、もっと肩の力を抜いて臨めばよいのだと。


 ともすれば完璧主義の淵に沈淪しかける精神を、一再ならず引き上げてくれたものである。

 

 

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 支え多きは幸いかな。おかげで今日も、こうして「何か」を書けている。ありがたやありがたや。

 

 

 

 

 

 
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金さえあれば ―過去と未来を貫く悩み―

 

 暗涙にむせばずにはいられなかった。


 私の手元に、『知らねばならぬ 今日の重要知識』という本がある。


 志賀哲郎なる人物が、昭和八年、世に著した、まあ平たく言えば百科事典だ。


 法律・政治・外交・経済・国防・思想・社会運動。大別して以上七つの視点から、当時の世相を撫で切りにしてのけている。その舌鋒の鋭さは、

 


 今日の戦争は、精神よりも武器である。優秀な武器の前には大和魂も木ッ端微塵である。爆弾三勇士の勇気を称へるのはよい。だが、優秀な武器があったなら、彼の勇士をむざむざ犠牲にせずに済んだらう。(718頁)

 


 この一文からでも十二分に察せよう。

 

 

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 著者の本業は法学士という。


 なるほど実にそれらしい、渇いた理性の積み重ねによる判断である。


 この種の手合いの書きもの・・・・は、端的にいって快い。1300ページ超のぶ厚さが、しかしまったく苦にならず、最後まで至大の興味を持続したまま読み切れた。


 で、気付いたことが一つある。


 本書を通して、ある特定のフレーズが繰り返し語られている事実に、だ。


 細部の表現を変えつつも、大本の意味は揺るがない。要所要所で顔を出しては読者の脳裏に色濃く己を焼き付かせてゆく。現代文の試験みたいな言い方をすれば、「作者が本当に伝えたいこと」に相当しよう。


 それはなにか。


 日本国には金がないということである。

 


 我が日本にも勿論よい兵器はある。九〇式の野砲や、九二式戦闘機等は世界に誇ってもよいだらうが、一般的にいって、非常な見劣りがする。外国人は我が軍隊を見て「古風な兵隊さん」といってゐる。その武器も古風なら、その編成法も古風である。併しそれは凡て予算がないから思ふやうに出来ないのである。(中略)小銃も古過ぎる。機関銃も自慢にならない。のみならず、戦車はわづかしかない。我が国みたいな少い国が何処にあるだらうか。ロシアは五百台持ってゐる。アメリカは千台持ってゐる。イタリーだって百二十台ある、だのに我が国は僅かに練習用を加へて四十台しかない。何といふことだ。装甲自動車もこれと同様である。(718~719頁)

 

 

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(鉄条網を突破する戦車の絵)

 


 さても赤裸々な記述であった。


 具体的な数字については「軍機」として伏されることが多いのに、よく一文字の検閲も受けずに済んだと感心する。

 


 文化は機械が造り出すものである。機械器具の精巧なものが出来れば、文化は自ら進む。我が国は文化に於て何劣る所がないやうに、機械器具の製造にも何一つ欠くる所がないかのやうである。併し我が機械器具製造工業で、世界に誇り得るもの、海外へ大いに輸出してゐるものに何があるだらう。殆どないと云っても過言ではない。これは何のためであるか? 我が国民の頭脳や技術が到底外国人に及ばないのであるか? 否、それは断じて否と云へる。見よ、造船術は緻密なる頭脳と優秀なる技術を必要とするが、我が国では明治維新以来大いに研究した結果、今日では一切国産であり、フランスから巡洋艦の注文を取ったりしてゐるではないか。この一事を以ってしても、国家的見地から費用を惜しまずに研究して行ったならば、遠からぬ将来に於て、どんな精巧なものでも製作し得るに至るだらう。ただ遺憾なことには、その研究費がないのである。(1026~1027頁)

 


 大観するに、以上二箇所がとりわけ顕著で「具体例」には丁度いい。

 

 

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 金がない。


 金がない。


 金がないのだ。


 金がなくて、文化もヘチマもあるものか。


 現在過去未来を通して変わらぬ、万古不易の世知辛さであったろう。


 英国が産業革命に成功したのも、むろんワットの天才もさることながら、それにも況してインド亜大陸を搾りに搾ったことにより、国内に山と積み上げられた財富あればこそではないか。


 してみると、真の産業革命の立役者とは、ロバート・クライヴウォーレン・ヘースティングズ、及び彼らの意を受けてベンガル一帯を荒らしまくった名も無き数多の略奪者との見方も成り立つ。


 鶴見祐輔の言葉を借りれば、

 

 
 クライヴがプラッシーの戦勝を博したのは一七五七年で、その後両三年の間に、ベンガル掠奪の財宝が倫敦に到着した。
 英国の産業革命は一七六〇年に始まる、とはすべての学者の一致するところである。
 ゆえに中世英国を近代英国に変革したこの産業革命は、ベンガルの財宝の刺戟であったことは争ふことはできない。何となれば産業革命とは、手工業が機械工業に変じた結果起った経済上の変化であって、機械工業が起ったのは、当時の発明を実施し得た資本のお蔭であったからである。(昭和十年、鶴見祐輔著『膨張の日本』231頁)

 


 およそこんな調子であった。

 

 

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北米大陸横断飛行に臨まんとする鶴見祐輔

 


 まこと現世は黄金万能。金さえあれば大抵のことはどうにでもなる。


 それを俗だと、濁世の極みと責めて嘆いて叫んだところで徒労にしかなり得まい。


 受け入れることだ。


 受け入れて、なんのいずれはこの俺の手で、天下の財をこぞってやらアと腕まくりして勇んだ方が――たとえ空元気であるにせよ――まだしも健康的である。


 そういえば杉村楚人冠パリオリンピック終了間際――すなわち大正十三年七月二十一日付けの新聞で、

 


 オリンピックの不成績を見て選手を咎むるほど酷なるはなし。スポーツを理解するものゝ少ない日本全国民の罪だ。分ったか。分ったら、もっと金を出せ。

 


 と吼えていた。


 メダル獲得者がレスリングフリースタイルフェザー級・内藤克俊の「銅」一枚きりとあってはこう言いたくもなるだろう。


 ああ、それにつけても金の欲しさよ

 

 

 

 

 

 
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