停滞からの脱出法は人それぞれだ。
なんべん書き直してみせたところで出来上がるのはつまらぬ文章、まるで実感の籠もらぬ表現。記事作製が遅々として進まぬ窮地に陥り、自己嫌悪が募ってくると、私はいっそ腰を上げ、モニタを離れて部屋の中をぐるぐる歩きまわるようにしている。
ゲーテに範を取ったやり方だ。
ドイツを代表するかの文豪は、あるとき日記にこう書きつけた。曰く、「最上の考えの浮かんでくるのは、大抵散歩しているときである、表現のしかたでさえ、いい考えは歩いているとき浮かんでくる」と。
なるほど確かに直立二足歩行とは、人類だけがこれを能くする運動だ。言語をあやつる能力もまた、人間のみに許された――少なくとも、現段階の地球上では――大特権。
同じ「特別」であるのなら、どこかで繋がっていてもおかしくはない。片方を活発に行えば、もう片方もきっと活性化するだろう――そんな風に理屈を捏ね上げ、自分を騙し、内心藁にも縋る思いで始めてみた習慣だったが、なかなかどうして、これが効くのだ。
三十分、頭を抱えてどうにもならなかった問題が、ものの三分の歩行によって呆気なく解きほぐされることもある。
ひらめきを得るのだ、電球が点灯するように。
吉村冬彦の随筆論にも、多大な援けを受けている。
随筆は思ったことを書きさへすればよいのであるから、その思ったことがどれ程他愛のないことであっても、又その考がどんなに間違った考であっても、ただ本当にさう思ったことをその通り忠実に書いてありさへすればその随筆の随筆としての真実性に欠陥はない筈である。それで、間違ったことが書いてあれば、読者はそれによってその筆者がさういふ間違ったことを考へてゐるといふ、つまらない事実であるが兎に角一つの事実を認識すればそれで済むのである。国定教科書の内容に間違ひのある場合とは余程わけがちがふのではないかと思はれる。(昭和十年『蛍光板』181頁)
随筆は随筆、学術論文を書こうってわけじゃあないんだから、もっと肩の力を抜いて臨めばよいのだと。
ともすれば完璧主義の淵に沈淪しかける精神を、一再ならず引き上げてくれたものである。
支え多きは幸いかな。おかげで今日も、こうして「何か」を書けている。ありがたやありがたや。
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