古書を味読していると思わぬ齟齬にぶちあたり、はてなと首を傾げることが偶にある。
最近ではオーストラリアの総面積を「日本のおよそ十一倍」と説明している本があり、ページをめくる指の動きを止められた。
――いやいや、かの濠洲が、そんなに狭いわけがなかろう。
相手は仮にも大陸ひとつを丸ごと領有している国家。学生時代に地理の授業で学んだっきり、うろ覚えだが、本邦比較で二十倍はあったはず。
(濠洲に於ける放牧風景)
この間違いはどこから来たのか。誤植を疑い、測量技術に思いを馳せて――それから漸く気がついた。
何のことはない、広かったのは日本の方だ。
台湾、朝鮮、南樺太――明治維新以後手に入れた新領土を合わせれば、オーストラリア大陸の十一分の一程度には達するのだろう。
逆に言うなら日本国は敗戦で、一気にその面積を半分近く削られたということになる。
これに関して、興味深い言を残したのが田倉八郎。
五十代という高齢ゆえか、それとも軍属ではなかったからか。ともあれ田倉は二年弱にて帰国を許され、収容所から解き放たれた。
さりとて本人主観にしてみれば、二十年も過ぎたような気がしただろう。
終わりなき悪夢からやっとのことで脱出し得た彼の瞳に、祖国の姿はどう映ったか。
手放しの歓喜、安心ではあり得なかった。
出かける頃は北はアリューシャンから南はソロモンの島まで広茫幾千里が日本の勢力下にあるかに見えたが、帰って来たときには、大やしまの四つの島が裸にされて、太平洋の波に洗はれながら、孤影悄然、今にも風邪を引きやせぬかと案ぜられるやうな姿になってゐた。(昭和二十四年発行『赤塔 シベリア抑留六四〇日』119頁)
あの生き地獄に閉じ込められて、
しかも何の罪咎もなく、敗戦国の民という、ただそれだけの理由によって閉じ込められて、
思い出すだに冷汗淋漓と背筋を濡らす、艱難辛苦の限りを嘗めて、
それでもなお、故国の岸を目の当たりにしていの一番に浮かぶ想念が
私のような戦後生まれにしてみれば、すっかり見馴れて別段どういう感慨も湧かない日本地図も、戦前活躍した人々には、無理矢理衣をひきむしられて寒風突き刺す修羅の巷に叩き出された愛児のような、哀切を惹起せずにはいられない、そういう対象として視えたのだろう。
こればっかりは実際に指摘されねばわからない、想定外の発想だった。
田倉八郎はまた豊かな歌ごころの持ち主で、抑留中にも多くの句を詠んでいる。
本人曰く「地球上の土地が人間でいっぱいになったときに、最後に住むべきやうな、いやな異国の丘」に繋がれた身でありながら、よくぞここまで瑞々しい感受性を保てたと、脱帽したくなる名句ばかりだ。
せっかくなので、幾つか抜き出させてもらう。
深雪の駅に
降り立ちぬ
寒灯や
非人情なる
兵の影
木枯に
吹き研がれたる
夜半の月
冬の蠅
命の尽くる
ところまで
厳寒に
眠り難きか
君端座
「銃殺」の
札に吹雪の
へばりつき
春愁や
汽車の消えゆく
地平線
今年もまた、八月十五日がやってくる。
蝉時雨を貫き響くサイレンが――。
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