清澤洌は円安ドル高を憂いている。
あるいはもっと嫋々と、嘆きと表現するべきか。
昭和十三年度の外遊、十ヶ月前後の範囲に於いて、何が辛かったかといっても手持ちの円をドルに両替した日ほど消沈した
「…僕等にとっては千円といふ金は大変な額だぜ。その血の出るやうな千円が、ドルにすると二百八十何弗しか手に這入らないのだ。単位を下げてみても同じだが、百円が二十八弗なにがし、十円が二弗八十何セント。この為替をかへた時ほど淋しい気持になることはないよ。大きなゴム毬だと思って抱いてゐたのが、いつの間にか空気がぬけて、しぼんでしまったといふのがその感じだ」
この感覚は現代人の心境に、そっくりそのまま当て嵌まる。またも一ドル百五十八円に達したとか達さないとかで顔色を赤くしたり蒼くしたり忙しい、令和六年六月現下の日本人の心境に――。
既視感というか、焼き直しというか。
人間とはなんとまあ、性懲りもなく飽きもせず、使い古された脚本を、役者のみを入れ替えて繰り返し上演し続ける、学習機能の麻痺しきった生物か――と、いい加減うんざりさせられる。
この辟易すら、また同じ。擦り切れるほど繰り返された、厭世主義者の口癖みたいなものなのだ。
「私はすべてのことを感じた。そしてこのすべてがいづれも既により巧妙に語られてゐることを発見した」。ーー個人的に贔屓にしている厭世の卸問屋たる、生田春月の例に徴して明々白々だったろう。
(フリーゲーム『×× 』より)
……どうも思考が捨て鉢というか、無気力・悲観に傾きがちのを自覚する。
きっと陽気の所為だろう。気温と湿度が上昇すると、つい生きるのが気怠くなって、視界に映るなにもかもが気に障り、負の感情の増幅にもはや止め処もなくなって、ひたすら暗い方面へ、人間性の深淵へ、意識が押し流されてゆく。
夏に怪談が流行るのも、同じ理由からではないか? 死の暑さとは、なるほど言い得て妙だった。死を想うには、夏こそもってこいなのだ。
ああ、今年もまた一年で、いちばん厭な季節がやって来てしまう……。
真夏日日数最多記録の更新だけはやめてくれ。去年のアレは思い出したくもない悪夢。天に祈りよ届けよと、今から願を懸けておく。
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