一九一九年、パリ講和会議に日本委員が持ち込んだ「人種差別撤廃提案」と、それが結局、否決に至るまでの間。一連の流れというものは、当時に於いてもかなり注目の的だった。
ほとんど固唾を呑むようにして。──実に多くの日本帝国国民が、その動静を窺っていたものである。
まるで「悲願」といっていい、視線の集中ぶりだった。
なればこそ、該提案が「内政干渉」の謗りを受けて、どうも居並ぶ列強の賛意共感を引き出し難いと知ったとき。
反応は蓋し強烈だった。知識人らは目を吊り上げて、彼らの持ちうる最強の武器、ペンとインクをひっつかみ、「何が内政干渉か」と反駁文を書いている。
わけてもたまらぬ切れ味は、内田定槌の仕上げてくれた
(Wikipediaより、内田定槌)
一九一九年四月、採決のほぼ間際に立って、この生粋の外交官は吼えたのだ、
「…若し其の反対によりて遂に日本の要求が貫徹しないとすれば、我が国民は欧米人が戦時中高唱した正義人道なるものは、唯だ其の利己主義を実行するの為に被って居た仮面に過ぎないものと思ひ、今後再び是れに欺かれないやう警戒しなければならぬ。又列強が正義人道に基かず唯だ其の利己主義を実行する機関として組織した国際連盟が永く世界の平和を維持し、人類の幸福を増進することの出来る筈がない。若し今後成立する国際連盟が早晩瓦解して、再び世界戦乱が起ったならば、目下講和会議に於いて我が正当なる要求に反対し、我が国民を屈辱の位置に陥いれたる列国の代表者とその国民は、正義人道を無視した責任を負はなければならぬ」
後の歴史を知る者にとり、預言的な響きすら見出し得る内容を。
笠間杲雄といい、あの時代の外務省には中々骨のある奴が居る。
然り而して内田定槌の危惧した通り、日本の提案は退けられた。教科書に書いてある通り、先人たちの提出した「人種差別撤廃提案」は賛成多数にも拘らず、「かかる重要な問題については全会一致を必要とする」との事由に基き、否決の運びと相なった。
かかる屈辱、もしくは悲境、あるいは滑稽そのものを、当時の外相・内田康哉は議会にて、以下の如く総括している。
「我が同胞は海外各地に於て事実上人種差別の待遇を受け居れるを以てパリ講和会議に於て永久平和の基礎として国際連盟規約の審議ありたるを機とし、我が全権は人種差別の事実を排除せんが為め成敗を顧みず国際連盟の趣旨に反する人種差別の撤廃を提出したる次第にて、会議に於て多数の賛同を得、各国共我が態度を諒としたるも今回パリ講和会議に於ては全員一致の賛成を必要とする規定上此問題は他日の機会に譲ることゝなりたる次第にて、今後も機会だにあらばこれを提出して其の貫徹を期せんとす」
一度の蹉跌でいつまでも、クヨクヨ消沈していられるか。
また挑め、何度でも。いつか実を結ぶその日まで。真理と信じているならば、繰り返すのを躊躇うな。──これはこれで、ひとつの
内田康哉と内田定槌。
姓を同じくする二人、彼らは出身も割と近しい。
前者は熊本県であり、後者は福岡県である。
共に九州地方であった。
こと生年に至っては、1865年でピタリと一致している始末。
世に奇妙とはあるものだ。そういう二人が「人種差別撤廃提案」を、同じ議題につき語る。
その内容を見比べるのは、なかなか以って乙である、縁を感じる趣味だった。
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