穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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完成された日本人


「印度海の暑とて日本の暑中よりも厳きことはなけれども、夜昼ともに同じ暑さにて、日本に居るときの如く、朝夕夜中の冷気に休息することの出来ざるゆへに、格別難渋なり。いやいや先生、日本の夏も熱帯的になり申したぜ。ここ何年かは夜の夜中も熱気がこもって・・・・かないませんや。夕涼みなど、とてもとても――。

 

 

(viprpg『やみっちの服って暑そう』より)

 


 慶應三年、福澤諭吉は都合三度目の洋行をした。


 太平洋を横断し、北米合衆国の土を踏む。それに用いた船の名を、すなわちコロラドと云う。


 帰国後物した『西洋旅案内』中に、コロラド号のスペック等が載っている。日本人が「黒船」と呼んで恐れて且つ憧れた水の上の城塞が果たして如何なる代物か、一読すれば誰でも理解わかるようにした。

 

 

 


 冒頭掲げたインド洋云々の一節も、この『西洋旅案内』から抜粋させてもらったモノだ。

 

 曰く、

 


「…此度余輩の乗りし太平洋の飛脚船コロラドの模様をあらまし左に記すべし。船の大さ三千七百トン、長さ六十間、巾八間、蒸気の力も甚強く、一昼夜に百二、三十里も走る。船の両側にライフボウトとて、ばっていら十艘程あり。このばっていらには底に仕掛ありて、たとひ水船になるとも沈むことなきやうにしたるものなるゆへ、本船もとぶねの難船することあるときは、このライフボウトにてたすかる工夫なり。其ためライフボウトの中には、平生より飲水、パン、並に天文を測る道具を備置き、何時にても不意の節はこれに乗移り、飢渇の心配もなく、道具にて天文を測れば何方いずかたにても自由に行かるゝやうにしたるものなり。又船中の人数銘々の寝床には浮袋の用意あり。これ亦非常のために備へしものなり

 


 船の説明に及んで早々、救命ボートと救命胴衣の存在を、煎じ詰めれば万一の事態のための備えを執拗なほど入念に描写しぬいているあたり、福澤らしさが躍如としている。


 自分の家の床下に脱出用の穴を掘ったり、どんでん返しを作ったり。全力で取り越し苦労をやりにゆく、転ばぬ先の用心を怠らない性質が。

 

 

Brosen lifeboats scandinavia

Wikipediaより、救命ボート)

 


 退路の確保は常にする。日露戦争で藤公も踏んだ道筋だ。いくさというのはおっぱじめた刹那から、終わらせ方を想定してかかる必要性がある。だからこそ金子堅太郎を合衆国に派遣して、和議への道をずっと模索させていた。


 大胆と臆病の無理なき共存。これが可能な人材が、明治期には割と居た。


 まあ、それはいい。


 本題はあくまで福澤である。羯南を経てしみじみ思う、やはり彼の文章の読みやすさは異常だと。同時代人の水準を、二段か三段、あからさまにブチ抜いてると。

 


「サンフランシスコは丁度日本の真東に当る所なれども、これまで同処へ渡海する船は、潮の流又は風の模様に由て、往路は北の方を廻り、帰路は南の方へ寄りしが、此度の飛脚船は格別の大船にて、蒸気の力強く、帆前を頼にせざるゆへ、此大洋を真直に乗切て直にサンフランシスコに着す。渡海二十二、三日の間は山も見ず島も見ず、茫然として空中を行くが如し。波風なき夜、甲板にいでて月をながめなどすれば、其景色淋しくもあり又面白くもあり、なんとなく人の気分を引立るものなり

 


 これが、これこそが、猿に読ませる心算で筆を揮った結実か。

 

 

靖国神社遊就館にて撮影)

 


 福澤諭吉が最も高く買った薩人、山本権兵衛にしてみても、

 


「自分は従来勝安房西郷隆盛、同従道、大久保利通伊藤博文など云ふ人物に面会して居るが考へて見れば此等の人々の中で福澤先生程大きく腹心を開いて人に接し子供の如き無邪気さを以て初対面より恰も旧き友達に対するが如き彼我の界を撤去して、愉快に語らるゝ雅量を持って居る人に会った事がない

 


 このような回顧を晩年に漏らしているあたり、座談の面でも、先生達者だったのだろう。

 

 

Gonbee Yamamoto later years

Wikipediaより、晩年の山本)

 


「明治を代表する個人」の称号は、やはり福澤で不動のようだ。


 個人的にはもういっそ、「完成された日本人」と呼びたいぐらい、それほどの知的徳的大偉峰。福澤諭吉の器量からして過不足はない、妥当な線といっていい。

 

 

 

 

 


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