「この命知らずの大馬鹿者め!」
戦場から生還した教え子に、師は特大の雷を落とした。
教師の名は福澤諭吉。
生徒は犬養毅であった。
(犬養毅)
明治十年、西南の地に戦の火蓋が切られるや、新聞各社はほとんど競うようにして自慢の記者を現地に派遣、刺激的な報道により以って人心を沸き立たせ、洛陽の紙価を高からしめんと努力した。
「君もどうだい」
ひとつウチの看板背負って修羅の巷の実景を筆に写しちゃくれまいか――と。
報知新聞から誘いかけがあったとき、実のところ犬養は、
(願ってもないこと)
肋骨を内側からへし折るほどに若い心臓を高鳴らせ、至上の歓喜に酔い痴れた。
(さてこそ学業のかたわら、しつこく投書を重ね続けた甲斐があったというものよ)
少年時代、地元岡山の漢学塾に通っていた時分から、風の噂に聞き及ぶ戊辰の役の内情に大いに血を熱くして、課題の詩作そっちのけで兵書漁りに忙しかった彼である。脳内に幻想の軍団をしつらえ、己が指揮にて架空の山野を進退させる想像を、いったい何度繰り返したか。そういう青さは、二十歳を過ぎてもなお完全に抜けきってはいなかった。肉の奥に潜在し、燃え上がる機を辛抱強く待っていたのだ。
(Wikipediaより、犬養の生家)
(しかし迂闊に色に出しては)
がっつき過ぎれば先方は、容易く犬養の足下を見透かし、二束三文の給料で扱き使おうとするだろう。
――そうはいくか。
「自分」の特価大廉売をヘラヘラ笑って出来るほど、犬養毅の自尊心は
なるたけ高く売りつけたいと、その程度の山っ気は当然ながら持っていた。
最終的に、
「では、この仕事を全うすれば、卒業までの学資の方はぜんぶ『報知』がもつ格好で」
そういう条件で纏まったらしい。
もっとも上の契約は、後にふとした事情によって立ち消えになってしまったらしいが。
どれだけ才気に溢れていようが所詮は世慣れぬ若者のこと、研鑽を経ていなければ手玉にとられる余地はある。些細なミスを拡大されてまんまと裏をかかれたのだろう。
とまれそういう経緯によって、犬養毅は帝都を離れ、遠く九州・火の国へと馳せ向かったわけである。
田原坂が地獄の一丁目と化しつつある前後のころに、現地入りを遂げたとか。如何に慶應義塾の生徒といえど、犬養個人の知名度たるや皆無に近い。扱いはむろん冷遇を極めた。軍営に床を借りるなど夢のまた夢、夜は空き家の藁屑の中に潜り込んで寝る始末であった。
(田原坂の弾痕)
しかしそういう過酷な環境に我と我が身を追い込んでゆけばゆくほどに、
――ああ、おれは確かに戦場にいる。
おとぎばなしではない、
昂ぶりの命ずるままに従い、犬養は任を果たし続けた。福地桜痴や藤田茂吉というような、名うての記者すら尻込みして近づかぬ、極めて危険な最前線にみずから進んで突入し、兵隊どもの生々しい表情、殺意、闘いぶりを克明に記録していった。
夜襲に加わった
特ダネ目当てに弾雨を潜るも厭わない、必死な姿勢がそのうち評価されたのか。気付けば士官の知り合いが相当以上に増えていた。
(私学校跡石塀の弾痕)
素寒貧がコネクションを作るには、命を張るのがてっとり早いと如実に示す事例であろう。
――その「仲良くなった士官」の中に、中佐時代の乃木がいる。
乃木とはむろん、二十八年後に旅順を陥とす、軍神・乃木希典のことである。
下は陣中、犬養が詠み、乃木に示した詩である。
遥かな後年、老境に入った犬養は、人から「書の極意」を訊ねられ、
「字は手の芸ではない。面の芸である。実際面の皮が厚くなれば、下手でも書ける。字を手の芸と思ふ間は駄目だ。面の皮が厚くなってくればもう占めたものだ、ナアニ、人が見て笑ふがそんなことには頓着しない。さうするとどんな拙筆でも巧くなる。
御大礼の時長寿者に御盃を賜はりし祝なりとて、八十九十の田舎婆が寿字を書きしものが新聞に出てゐるが、何うしても真似の出来ぬ一種の気韻のあるのがある。それはどうかといふと、上手に書かう下手に書かうといふ気がない、所謂徹底してゐる、徹底すると無我な田舎の老婆の何も知らぬ者でも出来る。
要するに、出鱈目は書の極意と思ふ」
こんな答えを返したそうな。
この墨痕のずっと向こうに、そのふてぶてしい人格が在る。
なるほどそれに相応しい、雄渾な気の籠った筆致だ。
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