江戸時代の法令というのは発布と実行の間にかなり大きな懸隔があり、これを考慮に入れないと、物事の実像をとんでもなく読み違う。
なにせ、「三日法度」なんて用語までもが罷り通っていたほどだ。
寛政年間の奇談集、『梅翁随筆』にちょうどこの言葉が使われている。江戸が繁盛するにつれ、道路事情にもいろいろ問題が起きてきた。牛車、小荷駄馬、大八車に代表される、「乗り物」による衝突事故の激増である。
交通量の増加が導く、必然の結果といっていい。
新たな統制の必要性を感じた幕府は、さっそくこのような触書を出した。曰く、「各車は十間づゝも間を置き、小荷駄馬は二疋続引に致すべし」と。
発想自体は当を得ている。車間距離の十分な確保が事故防止に繋がるというのは万古不易の哲理であろう。
が、エンジンも積んでいないのに、十間――二十メートル弱というのは少しばかり広すぎた。せっかちな江戸っ子気質も手伝い、不満悪口の類が続出。
「結局かかる掟は、作る方にも、下々の実情を知らず、又之を励行せしむる考もなく定めたものにて、軈て三日程も経てば自然に廃さるべしとて、之を『三日法度』と嘲笑」せり――なんだ、こんなの守っていたら、身動き取れずに日が暮れらあ、如何にも官僚的じゃあございませんかと、著者不明の『梅翁随筆』はこき下ろす。
天保十三年五月十二日に通達された、破産禁令は果たしてどうであったろう。これまた現代社会を鏡写しにするような、頗る興味深い政策である。
近年借金銀出入目安請金主へ、身代限り相渡し候身分不相応に衣類抔着飾り、人交致し、以前の家名再興との心掛も
「身代限り」につきおそろしく簡略化して説明すると、さしずめ一種の強制執行の如きものと考えればよいだろう。借金で首が回らなくなった者に対して、「官」が権力を発動し、全財産を差し押さえ、債権者への返済に充てる。
が、現代社会に於いてさえ、自己破産をあたかもリセットボタン扱いする輩が後を絶たぬのと同様に。
「身代限り」制度を借金逃れの便法としてもののみごとに活用し、破産した身にも拘らず、ぬけぬけと暖衣飽食に甘んじやがる不届き者が、天保年間、かなりの数に上ったようだ。
この禁令は、その対策としてつくられている。
元来百姓町人共儀代々の家筋等を其身の不覚悟を以て断絶させ候儀は、第一父祖へ対し不幸不本意の儀と残念に存すべき処其儀なく猥りに身代限り相渡し候段人情に有之まじき仕方にて右様の不所存者は
「身代限り」に処されることが祖霊に対してどれほど不徳か切に説き、穢した家名を雪ぐべく、一心不乱に働いてこそ人の道に適う行為と定義する。
罰則が罰則として機能しなくば、法に何の意味があろう。社会の箍などいとも容易く外れてしまう。そうはさせじと万力を揮う様が目に浮かぶ。
続きはいよいよ実質的な処罰に入って、
身代限り相渡し候者追て以前の家名を再興致し候迄は向後男女とも平日藁草履の外其余の履物は勿論雨天の節は傘下駄等相用ひ候儀差止め、蓑笠、桐油合羽等を着し往来致すべく且銘々親類身寄の者方吉凶の場所へ列席すまじく候、其上男は吉凶、平日とも上下、袴並羽織着用
一目で破産者とわかるよう、履物は藁草履に限定。
雨の日も傘はさせぬし下駄も履けない。せいぜい濡れ鼠の泥塗れになればよい。
親族の冠婚葬祭にも出席不能とするあたり、否が応にも「村八分」を思わせる。あの手この手で恥辱を与え、自分の立場のみすぼらしさを徹底的にわからしめ、一日も早く脱出せねばと希うよう発破をかける仕組みであった。
(Wikipediaより、藁草履)
借用書の文面末尾に「万一此銀子返済いたし不申事に候はゝ人中に於て御笑ひ被成候共其節一言申分無之候」――金を返せなかった暁には、人前で笑われても一切文句は言えません、と書くのが定型となっていた時代のことだ。
それほど「恥」という観念が生活に食い入り、人々の精神を支配していた。
破産に関する上の規定も、まさに江戸時代
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