セシル・ローズの恩師に当たるジョン・ラスキンは、あるときシェイクスピアの作品群を批評して、
「碌な男がいない。この中にはただの一人も、大丈夫がいないのだ」
と吐き捨てた。
ラスキンの眼光にかかれば、たとえばロミオなど短絡的でこらえ性のない青二才、ヴェニスの商人は逆境に出くわして為すことを知らず、ハムレットに至っては、夢と現実を混同しがちな空想的人物に過ぎないという。
なにやら『賭博黙示録カイジ』冒頭の、利根川幸雄の演説を彷彿とするのは気のせいだろうか?
ラスキンの舌鋒、なおも止まない。
「反対に優れているのは女性である。シェイクスピアのどの戯曲をのぞいても、完璧な婦人の登場しないものはない」
躊躇を交えず、彼の作品を解剖している。
物語の波瀾・破局・大事件は常に男の失策か、その愚鈍ぶりを根源としたものであり、これを救い上げて収拾するのは婦人の智慧と徳操とに相場が決まっているのだ、と。
大英帝国の完成を至上目的に設定し、それを仕遂げる英雄の器、すなわち男の中の男たるの人物を養成したいと熱望しているラスキンにとって、シェイクスピアの描き出した男性像は、あるいはよほど目障りだったのやもしれぬ。
そういえばラスキンの影響を強烈に受けたセシル・ローズの周囲には、ついに生涯、女性の姿が見当たらなかった。
――と、ここまで書いて思い出した。我が日本国にも、『ハムレット』の視点を逆転させて短編に仕上げた文豪がいたということを。
名前を志賀直哉という。
高校生の時分、確か「城の崎にて」だったと思う、現代文の教科書で志賀直哉に触れた勢いを駆り、図書館に突撃、彼の文庫を手に取って、収録されていた「クローディアスの日記」に衝撃を受けた。
啓蒙されたといっていい。
「目を洗われる思い」というのを、あのとき私は知ったのだ。
おれが何時いつ貴様の父を毒殺した? 誰がそれを見た? 見た者は誰だ? 一人でもそういう人間があるか? 一体貴様の頭は何からそんな考を得た? 貴様はそれを聞いたのか? 知ったのか? 想像したのか? 貴様程に安直なドラマティストは世界中にない。(「クローディアスの日記」より)
ことハムレットの人格分析に関しては、両者の観測は一致していたように思える。
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