知れば知るほど、こんな人間が現実に存在し得るのか、と、驚きを通り越して呆れが募る。
Hugo Stinnes。
一連のアルファベットの日本語表記は、スチンネスだのスティルネルだの、はたまたシュティネスだのいろいろあって、煩雑なことこの上ない。差し当たり本稿では、「フーゴー・スチンネス」の表記を採る。
(Wikipediaより、 Hugo Stinnes)
彼はドイツ全土の富の、実に三分の二弱を掌握した男であった。
石炭、鉄鋼、汽船、電気、旅館、新聞、印刷、出版、化学、自動車、製紙、そして銀行――およそ「主要産業」と形容されるすべてに関わり、とある社会主義者をして、
「ドイツの生産手段を社会の所有とすることは容易になった。スチンネスが独りで集めてくれるからだ。後はただ彼の手から、これを奪うだけでよい」
斯く言わしめた空前の巨人。
ドイツの新ロックフェラー。
新たな時代のビスマルク。
アメリカの「タイム」紙などは彼をして「ドイツの新皇帝」と称したが、これは決して誇張した
一枚の新聞を手にするにしても、またホテルに一夜の宿を求むるにしても、たった五分間市街電車に乗るにしても、十燭の電燈を点すにしても、さらに、一マルクの小切手を現金に代へるにしても…………
その全局面を総配する仕事の取扱者は、スチンネスであった、ドイツの銀行に、会社に、商店に、市場に、道路に、空中に、鉄道に、新聞に――スチンネスの経済的支配権の動いてゐることが見出され、その恐るべき財的潜勢力は、ドイツ民族の大なる一つの脅威に値するものであった。(大正十三年刊行、小竹即一著『大黄金魔スチンネス』18~19頁)
現世にこれほどの影響力を持った存在に対しては、もはや「皇帝」ですら生温すぎてそぐわなかったやもしれぬ。
更にその上、「神」の文字をあてがうべきか。
実際スチンネスの活躍時代にドイツを歩いた藤井悌という日本人は、ある日たまたま立ち寄った書店に於いて『神スチンネス』なる本を見付けてのけぞるほどに驚いているし、彼の本拠地であったルールには、今日でもなお「Das walte Hugo」――「すべてがうまくいっている」程度のニュアンスをもつ諺が罷り通っているほどである。
絢爛無比なる業績の数々――満天の星にも比するべき、それらによって彩られたこの男の人生は、しかしながら1924年4月10日、唐突に断ち切られることとなる。
前9日に受けた胆石手術が合併症を引き起こし、対策を講ずる暇もなく、ぽっくり逝ってしまったのだ。
享年、54歳。冗談のように慌ただしい、「生」から「死」への転変であった。
この男がせめてもう10年なりとも存生ならば、その後の世界の潮流がどう変化したかわからず、それを思うと痛惜に堪えぬ。我々の知る歴史とは、なんと微妙な偶然の累積上に成り立っているものだろう。
スチンネスの生涯中には、他にも歴史の転換点たるべき場面が幾つもあった。とりわけ興味深いのは、欧州大戦真っ只中の1916年3月に、駐ロシア日本大使・本野一郎と密会した一幕だ。
(Wikipediaより、本野一郎)
場所はスウェーデン首都ストックホルム。同国駐在のドイツ大使、フォン・ルチウスの手引きの結果――言うなれば、ドイツ側から望んで設えられた席である。
このときスチンネスが本野に持ちかけた話とは、「日露独同盟」という、なんともまた彼らしい、虹のようにきらびやかな大構想であったという。
ほとんどのドイツ人と同様に、スチンネスにとって最も憎むべき
その至上命題の為ならば、東方に対してある程度譲歩するのも厭わない。少なくともスチンネスはその腹積もりで、本野との会見に臨んだようだ。ロシア、日本を切り崩し、英国を世界の孤児とする。……
ジェイコブ・シフの例といい、こうして見ると第一次世界大戦当時に於いて日本に秋波を送ってきたドイツ人とは、存外に多かったような観がある。
茅原華山が憑かれたように絶叫していた「大英帝国分割論」も、あながち空想ではなかったということか。その後の歴史を鑑みれば、彼らを袖にしたのが悔やまれてならぬ。
スチンネスは敗戦後、革命政府に捕らえられ、牢にぶち込まれはしたものの、「商業会議所の解放運動と経済界復興の為には必要欠くべからざる人材」という政治的判断に基づいてほどなく出所。
気の狂ったとしか言いようのないハイパーインフレ――戦慄すべきあのドイツマルクの大暴落に際しても、彼は巧みにこれを利用し大きく身代をふとらせたから、「インフレ王」の名で呼ばれることもあったという。
たとえフィクションの世界でも、ここまでの設定はそうそう盛れるものでない。
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