己が名前を千載にとどむ、決定的な要因にも拘らず。
「弾劾演説」に触れられることを、尾崎は厭うていたという。
左様、弾劾演説。
大正二年二月五日、第三十帝国議会の本会議にて。尾崎行雄が不倶戴天の敵手たる――なにせ、死後に至るまで罵り続けた――桂太郎総理に向けて発射した、伝説的な批判の矢。
「彼等は口を開けば直ちに『忠君』を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へて居りますが、その為す所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」
憲政史上最も成功した政府批判と讃えられ、大正デモクラシーの強烈なる加速剤の用を為し、尾崎の位置をいっぺんに「神」の領域まで押し上げたこの雄弁に、しかし当の本人は決して満足できなかったものとみえ。
誰かに言及されるたび、まるで噛み潰した苦虫が、奥歯に挟まり取れなくなってしまったような、暗澹たる表情を浮かべたということである。
(尾崎行雄)
「いや、あのときの君の剣幕ときたらもう」
今にも首相の喉笛に咬みつきかねない、まさに狼を思わせる、こわいくらいの凄味があったと、ある日告げる者がいた。
例によって例の如く、眉間に皴を寄せながら、尾崎は答えた。
「
要は自分の心さえ、突発的な衝動ひとつ満足に制御しきれない未熟さゆえの産物であり、褒められるような筋合いはないと。
こんなことを言い出したから、周囲の者は一人残らず耳を疑い、反応に戸惑い、舌を失くしたかの如く沈黙するより他になかった。
――以上の噺は、昭和十一年に出版された『現代名士 逸話随筆』の内容に由る。
著者の名前は増田義一。実業之日本社を長きに亘って牽引し、それ以外にも大日本印刷会社を興すなど、紛れもない日本出版界の雄。その交友関係が多岐に及んだろうことは、あまりに容易く察し得る。
本書にはまた、このような記述も見出せる。――昭和十年前後にかけて、イタリアとエチオピアの関係がひどくキナ臭くなったとき。これをいちばん喜んだのは、山下汽船創業者、「海の偉人」山下亀三郎その人だったということだ。
…何でもイタリーがエチオピアへ兵を出し始めた頃から、戦争になれば宜いと祈ってゐた。ところで友人が往って、容易に戦争にはなりますまいと話すと、そんな不愉快な話は止めて呉れと言ったものだそうな。
愈々開戦するらしくなると、山下氏はイの一番に船の製造註文を発したそうだ。チャーターもその前からやってゐたそうで、その抜目のない機敏さには同業者も驚いたそうな。(319頁)
この下りを読み、私は正直、心底感嘆させられた。なんだ、日本にもイギリス人みたようなのがいるじゃあないかと、我が民族を見直す思いがしたからである。
有名な話だ。
第一次世界大戦勃発以前、帝政ドイツの盛時に於いて。彼らの海軍拡張を誰にもまして喜んだのは、当のドイツ国民にあらずして、ドーバー海峡の向こう側、英国軍艦製造会社の面々こそだったとは。――
なんとなればドイツが一隻、ドレットノートを建造すれば、その国防方針からしてイギリスは、より多くの軍艦を建造するを余儀なくされるからである。従って会社には仕事が舞い込み、利益はいよいよ拡大される。実に単純な構図といえる。
世間一般では「死の商人」などと揶揄されがちな手合いだが、私はこういう連中はこういう連中で人間味があり面白いと考える。百人や千人、この種の輩が社会に混在していてもいい。山下亀三郎への敬意がいや増したのは、そんな事情だ。
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