穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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日本の暗号、5000フラン

 

 日本の機密はよく漏れる。まるで老朽化した水道管さながらのダダ漏れぶりだ。中でも暗号に至っては、まるで破られるために存在しているような向きすらあろう。


 大東亜戦争でも、ワシントン会議でも、日露戦争の時点に於いてもそうだった。一握りの高官しか知っていないはずの情報が何故か周知の事実と化しており、滑稽とも悲愴ともつかぬ様々な活劇を演じたものだ。


 この噺もそのうちの一つに数え入れていいだろう。日露戦争開幕前夜、本野一郎――フーゴー・スチンネスから日露独同盟を提案された彼である――がフランス公使だったころ。

 

 

Motono ichiro

 (Wikipediaより、本野一郎)

 


 一人の男が彼を訪ねて、パリにある日本領事館の門を潜った。


 その容貌は明らかに彼がロシア人であることを指し示す人種的特徴を具えており、加えて筋骨の盛り上がり、眼窩の奥で底光りに光る瞳の凄まじさときたらどうであろう。どう見ても世間一般の男ではない。


(暗殺にでも来たのではないか)


 時節柄、本野が危惧したのも無理はなかろう。


 が、結局対面することにした。


 挨拶もそこそこに、男は棒でも突き出すような直截さで本野に取引を持ちかける。その内容というのが耳を疑わずにはいられぬもので、


「日本の暗号解読書を一冊持ってる」


 これを5000フランで買い取ってくれ、と言い出したのだ。


(何を抜かすか、この野郎)


 むろん本野は信じなかった。


 日本の機密通信を丸裸にしてしまえる魔法の鍵。そんなものをもし持ち合わせていたのなら、態々自分に売りつけに来るはずがない。ロシアにしろ支那にしろ、日本に意趣ある各国ならばその十倍の値を付けたとて喜んで買うことだろう。


(化けの皮を剥がしてやれ)


 本野は課題を出すことにした。そのあたりから適当な新聞記事を引っ張り出して男に手渡し、


「まずはこれを暗号文に直してきたまえ」


 と言ったのである。


 男は牛のように頷いた。


 如何にも無造作なその反応に、


(まさか?)


 小さな疑念の暗雲が、本野の胸中わずかに兆す。果たして不安は的中した。翌日再訪したロシア人、彼の提出した書類を見るなり、


「これは。……」


 本野はほとんど、口から魂が脱け出そうになるのを感じた。


 完璧だったのである。


 昨日渡した新聞記事が、紛うことなき日本の暗号文に翻訳されて記されている。

 

 

EnigmaMachineLabeled

 (Wikipediaより、エニグマ暗号機)

 


 最早疑念の余地はなかった。目の前の男は本当に、本来厳重に秘匿されていなくばならない暗号解読書を持っているのだ。


「言い値で買おう」


 当然の判断だったろう。


 本野は更に突っ込んで、入手経路を探ろうとした。意外なことに、札束を重ねるまでもなく、男はペラペラ喋ってくれた。


「一番最初は、あんたの国のオランダ公使だ」


 ロシアの諜報員たちはこの男が独身生活をしている点に目を付けて、英語が達者なロシア人美女を選び出し、オランダ人という触れ込みで、領事館の女中役に応募させ、見事潜り込ませたという。


 あとは日常の些細な触れ合いを積み重ね、公使を骨抜きにすればよい。これは赤子の手をひねるより簡単な仕事であった。なにせ、彼女が特別なにか仕掛けずとても、公使の方から彼女の美貌に魅惑され、勝手に近づいて来てくれる。


 暗号解読書の在り処が露見するのは、霧が風に散らされるより遥かに自然な成り行きだった。お宝は公使のデスクの引き出しにある。合鍵も既に拵えた。後は公使が熟睡中、そっとベッドから脱け出して、一頁一頁、丁寧に筆写してゆけばよい。


 ただ盗むのでは駄目なのだ。それでは日本側に「すわ漏れたか」と勘付かれ、暗号が変更されてしまう。よってすべてを秘密裏に、盗まれたという事実を気取られぬよう、幾晩にも亘って彼女はこの作業に邁進した。


 公使はついにこのイタズラに気付くことなく、幸福な槐安をむさぼり続けた。

 

 

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 絵に描いたようなハニートラップの典型である。ここまでうまく嵌ったことに、むしろロシア側が驚いたろう。本野は眩暈を禁じ得なかった。
 かてて加えて、


「同じものが何冊も印刷されて、世界各所に散らばっている」


 と聞かされるに及んでをや。
 本野はいっそ、笑い出したい衝動に駆られた。


「そんならこの一冊を買ったところで何にもならぬではないか」


 半ば捨て鉢な気分で突っつくと、男は憮然とした表情で、


「それはそうだが、これほどの大事を報せてやった謝礼としてでも、5000フランぽっちお安いところだ」
「なるほど確かに、そうでもあるか」


 苦笑しながら金を渡してやったという。


 一連の噺はスパイへの注意を促すための一種の説話的役割として、戦前広く語られたものだが、1992年のソヴィエト連邦崩壊以来、公開された数多の機密文書によって当節本当に・・・日本の暗号電文が破られていたことが明らかになってからというもの、俄然信憑性を増してきた。


 ことほど左様に多量の教訓がありながら、我が国は未だにスパイ大国の汚名に甘んじている。


 昨今ではこの称号を、べつに汚名とも屈辱とも意識していないような有り様だ。たかが特定秘密保護法ひとつ通すだに、あれほどの騒擾を覚悟せねばならぬとは、まったくなんと馬鹿な話であろうか。

 


 誰れも平和を願わぬものはない。その誰れもが願ふものを願ふといふのが何故悪いといふのは、精神的未成年者のいふ事である。吾々が若しも真に平和の維持せらるることを願ふなら、現実にその平和を維持すべき、最も見込み多き実行策について考へなければならぬ。(『朝の思想』156頁)

 

 

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 平成天皇、すなわち現在の上皇陛下の教育掛、慶応義塾大学教授小泉信三のこの言葉を、よくよく噛み締めるべきだろう。――それこそ、「過去の過ちを繰り返したくない」のなら。

 

 

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