(なんだ、ありゃ)
ロンドンに到着して早々、鶴見は異様な光景に面食らっていた。
そこここの広場や公園で、ざっと二・三十人程度からなる人間集団の数々が、おイッチニ、おイッチニと行進の練習をやっている。
が、お世辞にも足並みが揃っているとは言ってやれない。不統一といえば、第一服装からしてそうだった。
「背広姿が多いが、紺あり黒あり縞あり、帽子は鳥打あり山高あり、その有様千種万態(17頁)」といった具合であって、後々これが「キッチナー・アーミー」と呼ばれる志願兵の集団だと知ったとき、鶴見は甚だ意外な感に打たれた。
(大丈夫なのか、あれで)
留学中、ドイツに於いて日常的に目にしてきた、統一された服装のもと、精密機械さながらに整然と動く兵士や士官の姿に比べ、まったくなんという差であろう。
この二つの軍集団が激突した場合、
(英陸軍は、鶏卵よろしくひとたまりもなく叩き潰されるのではあるまいか)
ということは、素人目にも――否、素人の身であればこそ、外見の印象から受ける影響は大きく、そう予測せずにはいられなかった。
このキッチナー・アーミーは、かの有名な「英国は君を必要としている」の宣伝ポスターを筆頭にした巧妙なプロパガンダによって瞬く間に膨れ上がり、最終的にはなんと四十八万もの多きに到達。
既存のイギリス陸軍は十万に届かなかったというから、ほぼ五倍近い兵力を得たことになる。
(Wikipediaより、キッチナーの募兵ポスター)
彼らは1915年に海峡を渡り、フランス本土に上陸。翌年7月から始まったソンムの戦いに投入され、初日にして死傷者七万人という惨憺たる損害を記録している。
第一次世界大戦を通して、一日の戦争の被害としてはこれが最大のものだった。
それほどの犠牲を出してなお、戦果はほとんど皆無に等しく、「寸土を得ることも出来なかった」と評されている。
少々脱線したようだ。
話を、鶴見三三の身の上に戻そう。
ロンドンには彼以外にも、ドイツから逃げ出してきた日本人留学生が大勢いた。
「17日までベルリンに留まっていた連中は、一人残らず抑留されて檻の中にぶち込まれ、命さえも覚束ぬそうだ」
などと声を潜めて噂し合う彼らの念願するところは、一様に日本への帰還である。
どうせ戦争が始まった以上、英国でも満足に勉強など出来はすまい。いやそれどころか、戦局如何では此処も兵火に巻き込まれ、命を奪われぬとも限らない。
ここはさっさと見切りをつけて、祖国へ引き揚げるのが善し――と、我先にと船に乗り込む邦人が、圧倒的に大多数を占めていた。
が、鶴見はそうした周囲の声に倣わない。
あろうことかこの男は、日に日に危険性を増す欧州に、なおも残り続ける道を選んだのである。
私も考へた。その頃まで英国の医学は日本にはよく知られて居らず、知らずして軽蔑してゐるが如き点もあり、英語は中学で習ふたままであるから知らぬも同様だ。併し留学期間二年の半ばにも達して居らぬ。今帰朝しては一年以上を棒引にされる。それに戦争の模様も見たいし、ベルリンから一緒に遁げて来た友人と相談の上、私等の知人の大多数は先に述べたように競争して帰朝したのに、私等二人は断然ふみ止まることに決心した。(18頁)
豪胆としか言いようがない。
鶴見がイギリスで拠点としたのは、ロンドン中心部の一角を成すハムステッド地区だった。緑豊かで古くから文人が多く住み、21世紀の現在は高級住宅街となっている。
古色蒼然たるこの街にも、ドイツ航空隊は容赦なく爆弾をばらまいた。
30年後には――不幸極まりないことに――数多の日本人が味わわされる空襲であるが、それを1915年のこの時点で再三再四実体験した鶴見という人物は、かなり稀少な例ではないか。
闇の世で風なき晩はよくやって来た。だからしまいには今夜も来るぞと云ふ気持になった。最初はツェッペリン飛行船であったが後では飛行機でもやって来た。殆んど毎晩要所々々で探照燈を十文字に照し、飛行船を発見すると、高射砲を乱発する、この光を見、この音を聞いては、よい気持のするものではない。英国側では見張を海岸におき、ドイツの航空機を見付けると電話でロンドンの衛戌本部に通知し、自動車で喇叭を吹き市民に知らせることになってゐた。さて空襲だなとなると各戸では地下室にもぐり込み、街を歩いてゐる者は早くチウブ(地下鉄)に飛び込むようにした。(23頁)
鶴見三三の面白さは、彼自身「よい気持のするものではない」と内心の不安を吐露しているにも拘らず、戦争それ自体に対する興味のほどは一向薄れなかったことである。
薄れなかったどころではない。彼はそのうち、空襲だけでは満足できなくなっていった。
戦火に覆われた欧州大陸の実際を、どうしても自分の眼で見確かめたくなったのだ。
半ば狂気とも言えるこの願望を彼が実現させたのは、留学期間の切れる間際、1916年の春のこと。
「英仏海峡でどれほどの船が、ドイツ潜水艇の餌食になって藻屑と消えたか知らないのか」
危険すぎる、止めておけ――と、友人からの至極真っ当な忠告すら振り切って、鶴見は敢然その途に着いた。
ドーヴァー・カレー間の航路は既に連合軍の専用航路と化しており、民間の利用が不可能であることは事前の調べで分かっていた。
よって使うべきは、フォークストン・ディエップ航路こそだろう。そう思ってフォークストンに出かけてみると、こはいかに、連絡船の時刻表がどこにもない。
誰に訊ねても、一人として教えてくれはしなかった。それもそのはず、不用意に出航の時刻を発表すると、至る処に巣を作っている獨探が直ちに本部へ通報し、その便はあえなく潜水艇の餌食になってしまうのだ。
(戦時なのだ。仕方ない)
場合によっては二、三日ここで待機する覚悟を決めた鶴見であったが、幸いにしてその日の夜半、船が出る、乗る者は急げとの連絡が。
船は一点の燈火もつけず、息を殺すようにして闇の海面を滑っていった。
その間、鶴見が奇妙に思ったことは、船室に入る者がほとんどおらず、およそ八割方の乗客は甲板に陣取り緊張に目をとんがらせていたことである。
5月とはいえ、この年は気候不順でまことに寒い。吹きつける風は千本の針で刺すようだ。
にも拘らず、何故こんな苦行を敢えてするのかというと、命が惜しいからだという。
もし万一、船に魚雷がぶち込まれ、沈没の憂き目に見舞われた際、甲板に居た方が早く海に飛び込める。
ほんの僅かな差だろうが、生者と死者を分けるのは、存外紙一枚ほどの僅かな差だ――そんな訓戒を聞きながら、およそ二時間も走ったろうか。
なんの前触れもなく、ドカンという大音響が響き渡った。
(あっ、来やがったか)
さしもの鶴見もこの瞬間ばかりは恐怖で脳が麻痺したような状態に陥り、走馬灯を垣間見ている。
「きゃあーっ」
と、女性の乗客の中で絶叫する者があり、甲高いその音響がまた、一同の神経をパニック寸前まで追い詰めた。
が、幸いそれ以上のことはなく、船員の必死の周旋もあって船はディエップの港に無事到着。鶴見はここで一泊し、翌日パリ行の列車に乗っている。
パリへ着いた。始めて来たのであるが、いかにも火の消えたやうな感じがする。往来で出逢ふ男といふのは子供か老人ばかりだ。従って今まで男がしてゐた仕事を女が代ってやってゐる様子が明に認められた。(29頁)
第一次世界大戦が女性の社会進出に大きく寄与したのは事実である。
パリも同様、否ロンドン以上に空襲を受けつつあったので、夜は真くら闇、オペラはなし、芝居も殆んど休業の姿で流石享楽の都として知られてゐるパリでも変りようが烈しいと思はれた。(同上)
この後、鶴見はイタリアへ渡り、更にスイスに入ると首都ベルンにて久方振りにドイツの書物や新聞紙に触れている。
「前古未曾有の大戦争を側面から存分に眺められた」
一連の旅路に、本人はあくまで満足気だった。
(Wikipediaより、ベルン)
最初こそは偶然だったが、後にはみずからの意志で以って、進んで歴史の生き証人になったのである。
あっぱれ見事と膝を打って讃嘆したい。鶴見三三、己が情熱にひたむきなこと、男らしすぎる漢であった。
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