前島密と佐々木荘助。
日本物流史に巨頭として名を印せられるに値する、この両名が再び顔を合わせたのは明治五年四月の某日のこと。「司」から昇格を果たした駅逓
およそ二年ぶりに再会した佐々木荘助の印象を、前島密はその自伝たる『鴻爪痕』で次のように述べている。
此人は
この剣幕に、前島密は逆らわなかった。
あくまで穏やかな顔つきをして、時折
――もっともなことだ。
と言わんばかりに点頭してやる。そうして荘助の鋭鋒がふとやわらいだ隙を衝き、
「それならば誠に政府は君達の請願を容れて、通信の事は一切君等の手に任せる事にしたところで」
と前措いてから、
「ここに水陸両道のある安房の或村に送る一通の信書があるが、君等は幾らの賃銭で、之を届けることが出来るかね」
今度は逆に、彼の方から問い詰めた。
「人夫を一人、特発しなければなりませんから、まず一両はいただかなければ」
質問の意図を勘繰るよりも、反射的に口が動いた。
荘助の、職業人らしい習性であろう。
「では宛先が鹿児島だったり、根室だった場合はどうだ」
日本の南端、北端に等しい語感である。
特に鹿児島に至っては、未だ西南戦争以前で不平士族の坩堝と化しているころのこと。他国人が迂闊に足を踏み入れればどうなるか知れたものでなく、「薩摩飛脚」の四文字にまつわる恐怖感情は現役だった。
「特使を発しても難しいかと。何十両かかるかわかりませぬ」
そのように荘助が答えると、前島は身を乗り出さんばかりの勢いで、
「一衣帯水を隔てる朝鮮の釜山にはどうだ、支那の上海にはどうだ」
「……」
――そんな万に一つの例外を持ち出して、煙に巻こうったってそうはいかねえ。
腕まくりしてそう啖呵を切れたのならばどれほど楽か。が、荘助は不幸にも、さまで血の巡りの悪い男ではない。そこは流石、前島が「識量もある好男子」と見込んだだけのことはあり、
(これは暗に、これからの世はそういう注文が例外でなくなる、ならねばならぬ、俺がそうすると言っているのだ)
と、すぐに見抜いた。
事実、前島はそのつもりでいる。
先年イギリスで目撃したきらびやかな「文明社会」にこの日本国も参画するには、その程度の仕組み、前提として敷かねばならぬ。生涯初の洋行は、彼の郵便への信念をますます堅固にする効果を示した。
続く言葉に、その気負い込みようがよく表れている。
猶英米にはどうだ、露佛にはどうだと聞くと、茫然として気抜の様になり、どうして達し得るか其道を知らないと言って、大に恥入った様子であるから、私は
これはもう、立派な演説と看做してよい。
日本国には長いこと、この演説という意志伝達法が欠けていた。明治維新後、漸く齎された舶来品といっていい。当然免疫など備わっている筈もなく、荘助は不覚にも一大感動を発してしまった。
(負けた)
男として、志の雄大さで、自分はこいつに敵わない。――
そう実感しつつも、しかし気分がどんどん晴れ晴れとしてくるのはいったいどういうわけだろう。荘助は、己が心に戸惑った。
(ここだ)
練りに練った講和の条件。それを呑ませるにあたって今以上の好機はないと、理性と本能、両方が口をそろえて告げていた。
といって、何も不平等条約を押し付けようというのではない。
ここで視点をちょっと切り替え、再び『国際通運株式会社史』の筆法を借りよう。本書によると、前島密はこのように持ちかけて来たという。
…此際信書逓送の業には全然断念し、貨物運送の業を専らと為すべし。元来貨物の運送は、郵便事業に次ぎ、人間の生活上必要欠くべからざる事業なれば、政府も其の事業を奨励し、其の発達を保護せざるべからず。同じく保護を加へざるべからざるものとせば、其の方其定飛脚問屋を保護し、当寮の直轄たる御用達会社と為し、郵便に属する貨物運送の御用を請負はしめむと欲す。宜しく政府の意を體して、去就を過つこと無く、転禍為福の道を講ずべし(69頁)
郵便事業から手を引きさえしたならば、代わりに貨物運送業に関して政府は支援を惜しまない。君達飛脚連の独占と為し、駅逓寮からも屡々仕事を回してやろう――要するに利権の交換めいた相談として描かれている。
この提案を、果たして荘助は快諾した。
快諾していい。実際問題、落としどころとしてこれ以上は望めまい。
早速帰店して仲間一同を招集し、前島密の口吻を伝え、この際我々は彼の内命に従って駅逓寮に直属する貨物運送専業会社を設立すべし、それこそ繁栄の道である――と呼ばわったところ、意外にも反応は芳しくない。
(我々は、勝っているではないか)
この時点で、より多くの国内シェアを握っているのは明らかに飛脚側である。
にも拘らず、その優勢な我々が、みずから郵便の権利を投げ出さねばならないとはなにごとか。もっと粘れば、あるいはより良い条件を引き出せるのではないか――?
そうした算盤勘定の外に、単純に先祖伝来の家業から離れたくないという保守的感情も手伝っている。まるでいつかの再現の如く、荘助は孤立している自分自身に気が付いた。
が、
「事、遷延せば」
暗雲を吹き散らすような勢いで、声を励まし、荘助は言った。
「我々は政府の同情を失い、終いには法律の力に依って家業を取り上げられ、一同分散の憂き目を味わうことになる」
一喝したといっていい。
脅しではない。前島なら、日本を文明国に導くという信念に狂っているあの男なら、それしきのことはやってのけると誰よりも荘助自身が信じていた。
その必死の気迫が伝わったのか、不承不承ながらも一同やむなく和睦に同意。荘助は早速その旨を前島密に報告し、翌五月にはもう必要書類を取りまとめ、会社創立の請願を提出している。
事前の約束通り、ほとんど右から左といったスムーズさで許可は下り。
明治五年六月、本店を日本橋区佐内町の和泉屋が店舗内に設置して、ついに陸運元会社は誕生した。
形態は、五軒仲間一同を株主とする株式会社。「各駅の陸運会社と連合して、其の
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓