穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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給料自粛の不文律 ―官尊民卑の激しき時代―

 

 このころ「官」が如何に強大なりしかを象徴するエピソードとして、「給料自粛の不文律」が挙げられる。


 これがいったいどういうものか。慶応義塾の出身で、実業家にして衆議院議員波多野承五郎の筆を借りてお目にかけよう。

 


 其頃の三菱や郵船は勿論、日本銀行でも重役使用人に対する給与が貧弱であった。夫れは政府の官吏を目安として割り出されたからだ。例へば重役は大臣と同じ月給を貰っては相済まぬ。先づ次官あたりの程度に遠慮して居らねばならぬ。他の使用人は局長以下それぞれ比準する所がなければならぬと言ったやうな、考で、給与が出来て居た。(昭和二年刊行『梟の目』43頁)

 


 たかが民間企業の重役ふぜいが、畏れ多くも堂々たる日本政府の大臣様より高い給料をもらうなど不敬千万、慎みやがれというわけだ。今からすれば馬鹿馬鹿しいにも程があろうが、その馬鹿馬鹿しい内容が正気で罷り通っていたのが明治初頭という時代であった。

 

 

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 福沢諭吉官尊民卑の四字熟語を新たに作り、その弊風を打破せよと絶叫したのも頷ける。

 

 

蒔かぬ果報を寝て待つよりも
起って働け我手足

何をくよくよあのお武家
人の稼ぎを見て暮す

仁義道徳くそでもくらへ
ごじきしながら青表紙

 


 斯くの如き端唄を口ずさんでまで、人々の心に独立自尊の精神を励起せしめんとした福沢だ。
 如何に「立って働」いたところで官吏の給料を越えられぬ、所謂「天井」が設けられている社会など、彼にはどうあっても我慢ならないものだったろう。


 この「給料自粛の不文律」は、やがて三井家使用人の増棒が実現されたのを皮切りに順次打破されてゆくのだが、それでも暫くのうちは猶も政府に遠慮して、あれこれ「特別手当」にかこつけて実質的な増棒を行うところがほとんどだったそうである。

 

 

Mitsui Main Building

 (Wikipediaより、三井本館)

 


 ――斯くも強大な「官」の保護を。


 全面的に受けていたのが陸運元会社に他ならず、経営陣が軒並み案山子程度の頭脳あたまの持ち主でもない限り、同社の繁栄は約束されたも同然だった。


 むろん、吉村甚兵衛佐々木荘助も、無能とは程遠い「切れ者」である。


 政府の保護に甘えるのみにあらずして、これを活用する術を、熱心に研究する勤勉さをも持ち合わせていた。

 


 ではその「保護」の内容を、幾つか詳しく眺めてみよう。

 


 たとえば明治五年九月。政府内のある人物が、


「郵便はなにも書簡に限らず、小包も運ぶようにしたらどうか」


 そのように提案したことがある。
 おそらくは何の気なしのこの発言に、しかし駅逓頭前島密は極めて敏感に反応した。

 


「今陸運元会社をして物貨転送の業を許し、尚ほ駅逓寮に於て小包類の転送を為さば、其の許す所の物貨転送は唯空名のみ。依て是等は一切陸運元会社をして之を輸送せしむべし」(『国際通運株式会社史』86頁)

 


 貨物の運送を独占させるってえな名目で、連中に郵便業を棄てさせたんだ。今更約束を違えられるか――暗にそう言わんばかりの論調でこの提案を封じ込め、同時に次のような建白書を作成し、陸運元会社の特権が今後脅かされぬようはからっている。

 


 郵便事務上に於て、当然支給すべき各地郵便取扱所脚夫賃の運送及び郵便切手鬻売代金の収納は、陸運元会社に命じて之を授受せしめ、連月其の運賃を交付すれば、凡そ郵便の通ずる地は、月々必ず正確なる宰領往復を為すを以て、脚夫賃金の交附、切手代金の領収、金子入書状の転送等、別に費用を要せずして運輸の道を開き、始めて国内一般郵便方法の完全を得るのみならず、会社も亦遍く物貨転送の便法を得るを以て僻陬辺境と雖も、人間交際欠くべからざる小包物転送の利益を興すべし(87頁)

 


 ATMなど影も形も見当たらないこの時代、駅逓寮から各郵便局へ支給金を交付するには、また各地で販売した郵便切手の売上金を駅逓寮が収納するには、やはり人が直接手に携えて、それを運ぶ必要があった。

 

 

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 毎月発生するこの仕事。本来ならば駅逓寮自身が負担すべき任務だろうが、前島密敢えてこれを陸運元会社に委託。その都合上、金子入書状――今で言う現金書留の如きもの――の運送許可すら与えるという、まさに破格の待遇で迎えた。

 


 ――郵便事業から手を引きさえしたならば、代わりに貨物運送業に関して政府は支援を惜しまない。君達飛脚連の独占と為し、駅逓寮からも屡々仕事を回してやろう。

 

 

 


 上の記事にて言及した、前島と佐々木の利権交換。


 あの発言を、前島は律義に守り通したといっていい。この建白書はつつがなく太政官に容れられて、陸運元会社には数多の仕事が、しかも安定して舞い込んで来るようになり、社員はますますその運送技術を習熟させる。


 ずぶずぶの関係とはこういうものであったろう。政商が儲かると言われるわけだ。

 

 

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 前回の記事にて言及した「陸運会社の強制解散」に関しても、陸運元会社の上役連は一年前から耳打ちされて知っていた。


 ――近く政府はこのように動く予定である。


 だからその際、速やかに全国の物流網を掌握できるように準備しておけ。


 そのような内示があったという。


 この官命を全うすべく、会社はたとえば「物貨取扱規則」を制定。今後宙に浮いた数多の人材を吸収する展開が予想されるが、そうなったとしてもサービスの質が低下することなきように、新入社員にも古参連にも二十ヶ条からなるこの規則集を遵守さすべく手配している。


 この二十ヶ条中、とりわけ面白いのは十一番目だ。

 


十一、物貨配達の日、其領受人の不在等を以て、配達再三に及ぶものは、毎度其配達賃の一倍を収むべし。

 


 この時代からもう既に、「荷受人の不在」は重大な問題だったらしい。


 現代の運輸業者の方々も、ひょっとしたらこれぐらいの――その都度、運賃がかさむという――ペナルティは科してやりたいと念願しながら不在票を突っ込んでいるのではなかろうか。

 

 

独立自尊 ──福沢諭吉と明治維新 (ちくま学芸文庫)

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