穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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町飛脚の歩み ―定飛脚問屋への道程―

 

 寛文三年の公許によって、町飛脚には大小さまざまな変化が齎された。


 たとえば服装。これまでのように武士の格好をする必要が無くなって、飛脚夫の姿は全然町人のそれとなり、現代に生きる我々が「飛脚」と聞いてすぐ連想するあの軽装が一般的になったのである。


 ――改めて思うが、町人が侍に化けるなど本来ならば打ち首獄門級の重罪だろうに、その前非を毫も問い詰めた形跡のない江戸幕府とは、大度というか、なんというか。

 

 

Beato courier or postman

 (Wikipediaより、フェリーチェ・ベアトによる飛脚の着色写真)

 


 変化は根本的な業務形態にさえ及んだ。それまで――つまり大坂在番の保護下に営業していた時代には、大坂を発向した飛脚屋が江戸に着いてまず一番にやることは、適当な旅亭の軒先を借りて筵を広げ、運び来った数多の書簡をその上に並べることだったのだ。


 このようにして行き交う人々の縦覧に添え、行人その中にたまたま自分宛のものを発見すれば、飛脚屋に告げてこれを受け取る。このとき返書を送らなければならなくなった場合に備え、


「お前さんはいつ大坂あっちに戻るご予定だい」


 と訊ね置くのが、謂わば客たちの心得だった。


 これが町飛脚問屋として独立後はどうなったか、昭和十三年刊行の『国際通運株式会社史』より抜粋すると、

 


 日本橋の広小路に毎朝かますを据ゑ、飛脚の目印を立て、別段番人を置かず、差出人は書状又は荷物に賃銭を結付け、之れを叺の内に投じ、飛脚業者は毎夕之を取集めて、京阪地方の宛先へ運送したりしと伝ふ。(25頁)

 


 未熟なれども「郵便ポスト」のような仕組みが出来つつあって感慨深い。

 

 

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(中西義男 「アカイ ポスト」)

 


 また、これはあくまで普通便の話であって、「定六」と呼ばれる――東海道を六日で駆け抜けるところからこの名がついた――速達便の収集方法はまた違う。


 こちらは各飛脚屋が申し合わせて、ここは和泉屋、ここは山田屋といった具合に受け持ち区画を分担し、毎日一定の時刻になると収集人を派遣して、鈴を鳴らして巡廻させつつ、


「○○屋の定六でござアい」


 と呼ばわらしめた。


 客としてはいつこれが来るか分かっているから、用があるならその通路に於いて待ち伏せて、姿が見えれば呼び止めて書状を渡せばそれでよい。


 手渡しで頼める安心感もあったろう。私自身、ちょっと覚えのあることだ。学生時代、図書館の返却ボックスに確かに本を入れたのに、その後「未返却」という通達が来て騒ぎになったことがある。あれ以来、私の中で回収ボックスというものへの信頼感が失われ、図書館だろうがTSUTAYAだろうが返却時には必ずカウンターへ持って行く癖がついてしまった。

 


 まあ、それはいい。

 


 兎にも角にもこの巡廻制度はすこぶる好評を博したもので、後世に至るまで末永く運用されることとなる。


 しかしながら、世の中いい変化ばかりとはいかないもので。


 公許によって新たに発生した弊害というのも、むろんある。


 その最たるものは、やはり悪徳業者の増加だろう。どんな商売でもそれが儲かると知れた途端、類似の業者が雨後の筍の如くに生えてくる。これはもう、古今東西変わることなき人間世界の哲理であろう。

 

 

BambooShoot

 (Wikipediaより、群生する竹と筍)

 


 おまけにこの連中は後発組なだけあって、伝馬所を恐れる心が薄い。大坂在番に対して山吹色の菓子を用いなければ、ろくに人馬を供給してもらえなかった嘗ての時代を知らない。自分達の職業が、その実伝馬所役人の「好意」の上に成り立っているという自覚がないので、自然多くのトラブルを惹起した。


 迷惑するのは老舗である。ただでさえ泰平の世の効能により人口が増え、飛脚の需要が高まって、もはや伝馬所の供給力が飽和しつつあるときに、こんなことをされてはたまらない。住所不定の雲助あがりみたようなのが飛脚を名乗り、荷物を持ち逃げしたりする論外の沙汰も時々起こり、次第に彼らは対策の必要性を感じていった。


 そしてついに、安永元年(1772年)十一月十七日。江戸飛脚問屋九家の連名により、時の道中奉行安藤弾正少弼へ、陳情書が差し出されることとなる。


 この陳情書は全文が、前述の『国際通運株式会社史』14~19頁に亘って転載されている。
 長文だが、求めているところを要約すれば、「飛脚屋の株式の公認」、これに尽きよう。

 


 結果から言えば、この要求はみごと幕府に容れられる。

 


 が、それにはよほど慎重な討議が重ねられたものと見え、許可が下りたのは実に陳情から九年後の、天明二年十一月六日のこと。道中奉行は安藤弾正小弼から、桑原伊豆守に変わっていた。
 以下はそのときの触書である。

 


 近来各駅に於て、三都飛脚問屋、荷物の逓送を遅滞し、大に公用の停滞を致す。依て飛脚問屋、京屋弥兵衛、山城屋宗左衛門、木津六左衛門、山田屋八衛門、伏見屋五兵衛、鳥屋佐右衛門、大阪屋茂兵衛、和泉屋甚兵衛、十七屋孫兵衛の九家に命じ、其店頭に於て、各定飛脚問屋の招聘を掲げしめ、其行李は悉く定飛脚の会符を挿ましめ、其宰領には定飛脚の烙印札を付与し、各駅にも亦其鑑札を予付し、路地之と勘合し、皆お定め賃銭を以て往復なすを許す。各駅宜しく其の旨を体し、公私荷物を論ぜず、其の行李の着順に従て、駅馬及助郷馬を出し、片時と雖ども、其の逓送を遅滞すべからず。云々

 

 

Hagiokan fudaba

 (Wikipediaより、復元された高札場)

 


 これによってどんなことが起こったか?

 影響は甚大だったといっていい。

 まず株式を公認された九家――「定飛脚問屋」の許しがなければ、何人たりとも新たに町飛脚の営業を始めることが出来なくなった。


 謂わば、町飛脚を免許制にしたのである。各伝馬所も、町飛脚に人馬を供給することは「余裕がある場合の好意」ではなく「歴とした義務」になった。


 またその際の代金も、これまでのような季節・天候・街道の繁閑次第で上下させられる「相対賃銭」にあらずして、確固不動の「お定め賃銭」と設定される。


 この「お定め賃銭」、従来ならば諸侯の旅行及びその荷物運搬時にのみ適応される特権であり、それを解放したということは、幕府はよほど思い切ったと言わねばならない。
『国際通運株式会社史』の編纂者がこの「定飛脚問屋」誕生を以って、「我が国運輸史に於て、最も記念すべきものなり(20頁)と感激も露わに書いているのもむべなるかな。


 この日以降、町飛脚のサービスはいよいよ以って安定し、高まり続けたその声望は、ついに水戸・・紀州・・といった徳川御三家の公用物運送御用さえ招き寄せることになる。

 

 

Japanese crest Mito mitu Aoi

 (Wikipediaより、水戸三つ葉

 


 葵の御紋が刻まれた荷物を運ぶということは、当時の町人にとって夢かと見紛うばかりの光栄。四民は驚異の目をみはり、定飛脚問屋を見るしかなかった。

 


 やがて幕末に至ったとき。吸収・合併等々の紆余曲折を経た果てに、生き残っていた定飛脚問屋は計五軒

 

 

島屋佐右衛門
京屋弥兵衛
山田屋八左衛門
和泉屋甚兵衛
江戸屋仁三郎

 


 世に「五軒仲間」と通称された彼らこそ、維新を越えてなお運送業に従事し続け、ついには陸運元会社――現在の日本通運株式会社NIPPON EXPRESSへと繋がる組織――を築き上げる人々である。

 

 

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