穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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志田周子の背景 ―父・荘次郎翁の軌跡―

 

 

 山形県の農村で名家の娘として生まれた周子は、努力して東京女子医専(現・東京女子医大)に入学し、医師になった。父からの「スグカエレ」という電報を受けて8年ぶりに故郷に戻った周子は、父・荘次郎が勝手に周子名義で診療所を建設していることを知る。無医村の大井沢村に医師を置きたいと願っていた父は、代わりの者を見つけるまでの3年間だけでも、村で医者をしてほしいと周子に頭を下げる。未熟な自分に診療所の医師が務まるのか不安だった周子も、父の頼みを聞き、3年間だけ頑張ろうと心に決める。2015年11月、山形県で先行公開。


 ――以上、映画.comより引用させていただいた、『いしゃ先生』のあらすじである。

 


「代わりの者を見つけるまでの3年間だけでも」という条件付けは昭和十九年刊行の『甦へる無醫村』中にも発見できるものであり、その点両作品は一致している。

 


 はじめ荘次郎さんの考へでは、娘を三年間、山村のために働かすつもりであった。三年たてば、結婚もさせよう、修行にも出さう、それまでには村人の健康も向上するだらう、後継者の目鼻もつくだらう、と思ってゐた。(『甦へる無醫村』183頁)

 


 喰い違ってくるのは、この話を切り出したタイミングだ。
 映画の方の荘次郎は理由も告げずにいきなり娘を呼び戻し、人情的に断り難い環境を作り上げ、あたかも「囲い込み」めいた所業に及ぶなど、やることがどうにも姑息に見える。


 が、『甦へる無醫村』にて福岡隆が目の当たりにした志田荘次郎という男は違う。


 故郷に戻って医者をやって欲しいという願いは娘が都会に居る時分――東京女子医専を卒業し、附属病院の今村内科で助手をやっていたころ既に伝えていたものであり、周子の方からそれを承知する旨電報すると、間もなく「帰郷を待つ」との返事があったというのである。


 そればかりでなく、どうやらこの一件は親族中にも相当波紋を呼んだと見え、準備を進める周子のもとには彼らから、

 


「この山奥へかへってどうする。そちらで職を求めよ。それがお前のためだ。おやぢが帰れといっても決して帰るでないぞ」(154頁)

 


 こうした意味の手紙が続々舞い込んだというのだから、『いしゃ先生』で描かれたような「騙し討ち」をするのはどう考えても無理がある。
 つまり福岡隆によれば、昭和十年七月に於ける志田周子の帰郷とは、所謂「覚悟の帰郷」に他ならなかった。

 

 

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 期限を三年間と切った荘次郎の心境についても、福岡は更に突っ込んで訊いている。
 この問いに対する荘次郎の返答は、ちょっと長いが、眉をひらくに足るものであり、是非とも一読を願いたい。

 


 いくら父であり、娘であるとはいひながら、いつまでも娘を犠牲にすることは許されない。娘には娘の自由があるはづである。
 かりに父である自分が電話のボックスにはいってゐるとすれば、娘の周子もやはり娘なりに電話のボックスに入ってゐるわけである。ボックスの外から村のために働いてくれとか、かうしてくれ、ああすべきだ、と、父としてのさまざまな忠告なり要求なりをいふことはできても、戸を開けてボックスの中にはいって、娘を強引にひっぱり出してまで自分の要求をきかせたり、思ひどほりにすることはできるものではない。ボックスの中は、誰にも乱されないその人の自由な世界であるはづだ。それまで乱すことは人の道に反する。
 結婚にしてもさうだ。ボックスの外から、「お前、この人と結婚する気はないか」と、父としてすすめることはできても、否だ、といふものを、無理矢理ボックスの中から引きずり出してまで結婚させることはできない。忠告もし、指導もすることは、もとより差支へない。否、むしろどしどしすべきである。しかし、娘のみに与へられたボックスの中の自由までも奪ふことは天人ともに許されないことである。(183~185頁)

 

 

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「滅私奉公」が絶叫され、個人主義的な論説など薬にしたくとも見当たらないはずの戦時下にあってよくもまあ、こんな内容の本が一切の検閲もなしに出版せたものだと思わず感心したくなる。


 この演説を、福岡隆「実に立派」と激賞している。山村の人とも思えぬほどに進歩的な見解だ、と。――


 それもそのはず、実は志田周子の道程は、数十年前志田荘次郎が歩んだ道の相似形でもあったのだ。

 

 

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 すっかりあたまの寂しくなった荘次郎翁もその若かりし時分には、この仙境から街へと下りて山形師範学校に通い、教員免許を獲得した俊英だった。


 その後、県内の某小学校にて教師としての経験を積むうち、明治三十九年頃、東京師範学校を中心として広まった修養団運動」に参加。「流汗鍛錬・同胞相愛・献身報国」のスローガンのもと、


「盟友団結の力をもって個人修養の推進力たらしめ、和協一致、総親和、総努力の善風を天下に作興せん! 来れよ友よ! 醒めよ同志!」


 獅子吼する蓮沼門三に共鳴し、彼の精神を実現するため、活動に打ち込んだとのことである。

 


 いかにわれわれが、世のため人のためを思ったところで、個々分々で仕事をしたのではとうてい成就するものではない。これを成就させるには、小さい利個心を捨て、すべての者が大目的にむかって大同団結するよりほかに途はない。
 金ある者は金を出し、智慧ある者は智慧を出し、権力ある者は権力を出し、さうして国民がおのおの持ちあはせのものを出しあって協力するところにこそ、国家の幸福も、社会の進歩も、また人類の幸福もあるのだ。
 学校にしてもそのとほり、特に次代の国民を教育する教師は、この心を片時も忘れてはならない、と、しみじみ思った。(54~55頁)

 

 

SYD-Building-01

 (Wikipediaより、修養団SYDビル)

 


 未だ寒さの強く残る大正三年四月のある日、親戚という親戚から反対されたにも拘らず、窮迫する故郷を救わんと妻と五歳の周子の手を引き大井澤村へと帰っていった荘次郎の「捨て身」の行為の原動力は、このあたりに根ざすとみて間違いない。


 つまりは親子二代で村のため、打算を超えて献身したということである。この父なくしてこの娘はあり得なかった。数ある人間風景の中でも、これは際立った偉観であろう。志田親子を想うとき、私は何か、高峰を仰ぎ見るような清々しさを胸に感じる。

 

 

蓮沼門三物語―愛と汗の人

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