穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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永遠に忘れじ、志田周子

 

 村人の感情面以外にも、志田周子の悩みの種は多かった。
 無数に及んだといっていい。今回は、それらの中でも大粒のモノを点描してみる。


 まず真っ先に挙げられるのは、彼女自身の医師としての未熟さだろう。東京女子医専卒業後、二年あまりにわたって今村内科に勤務したといえど、それはあくまで「助手」としての経験で、やや乱暴な言い方をすれば「上役」である今村医師の指示に従って動いていたまでのことであり、自主的な判断を下す余地に乏しかった。


 それが大井澤村に赴任するや、一転して診療所の最高責任者である。


 勝手の違いに困惑しないはずがなかった。

 


「なにしろ、はじめはずゐぶん間誤つきましたわ。器具が不揃ひな上に、薬の調合までやるんでせう。処方は書けても、実際の調合となると、からっきし駄目なんですの。
 いちどなんか、ロテッキスに10Cと書いてあるもんですから、十倍にうすめるのかと思ったら、十倍にうすめてあるからその十倍を使へ、といふんでせう。おどろきましたわ。ほんとに机上の学問と実際は、違ふもんですわね」(『甦へる無醫村』158頁)

 

 

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 福岡隆との対談でしみじみ語った周子だが、これはその種の苦難をさんざ・・・乗り越え医師としても人間としても成長できた昭和十八年の彼女だからこそ醸し出せる余裕であって、赴任当時はそれどころではなかっただろう。


 なにせ、まだ25歳のうら若き身だ。


 医師としての自信が揺らぎ、心が折れそうになって当然である。福岡隆もそのあたりに思いを馳せて、

 


 ほとんど自給自足といってもよい診療所のことである。科学に絶対の信頼を置いてゐただけに、周子さんの悩みは相当深刻なものがあったにちがひない。(159頁)

 


 と、内心ひとりごちている。


 そう、「ほとんど自給自足といってもよい診療所」


 次に挙げるべきはまさにこの、施設自体のお粗末さであるだろう。

 

 

 


 大井澤村の診療所について私は以前、上の記事にて父親である志田荘次郎翁が500円を投入し、「診療所と名乗る上で最低限必要な設備を整え」たと書いている。


 その記述に間違いはない。


 が、あくまでも、最低限度は最低限度。女子医専付属の先進的な病院で研究に当たっていた周子の目には、いかにも見劣りするものばかりであって、「器具といへば玩具にもひとしく、もとより顕微鏡などといふ気のきいたものがあらうはずもない(158頁)というのが実情だった。


(いったいこれで、どうしろというのだ)


 答えは一つ、どうにもならない。


 治療法を知っていながら、しかし器具の不全のために手の施しようもない患者の群れが、周子の心を無惨に抉った。


 そういう場合は結局のところ患者を橇にでも乗せてやり、下界の専門医のところまで引っ張ってゆく以外に術がない。


 が、なにぶん山道である。


 快適な旅路など到底望むべくもなく、橇は絶えず震動し、ときに意想外の挙動に出ては大きく揺れて、患者の苦痛に拍車をかける。橇の中のうめき声が高まるたびに、周子はなにやら自分が病人を拷問にかけているような錯覚に襲われ、名状しがたいやるせなさを味わわなければならなかった。

 

 

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 これだけでも勘弁してくれと叫びたくなるには十分なのに、更に追い打ちをかけるような出来事が起こる。
 他ならぬ周子の母親・志田せい・・が病に倒れ、しかもその病状が、やはり村の診療所では対処不能なモノだったのだ。


 病名、葡萄状鬼胎。


 胞状奇胎という妊娠異常の旧称で、絨毛膜の組織が異常増殖して多数のブドウ状の嚢胞化する症状を呈す。


 一刻も早く下界へおろし、然るべき治療を受けねばならない。


 しかしながら母の病が発覚したとき、ちょうど最悪のタイミングで山の天候は連日荒れに荒れており、とてものこと運搬など不可能だった。


 このような悲惨が人間世界にあってよいのか。志田周子は細まり続ける母の息を、為す術もなく枕頭にて見守ることしか出来ないのである。


 やがて、それも完全に絶え。顔には白布がかけられた。


 帰郷からおよそ三年、父と約した例の期限も終わらんとする日の出来事だった。

 


「ほんたうに残念でしたわ」
 当時を思ひ起こして、周子さんは暗澹となられた。(180頁)

 


 この短い呟きの中に、しかし籠められた想いは無限である。

 

 

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 当時の田舎の常として、志田家の子供の数は多い。長女である周子を含めて、七人兄弟だったという。
 末っ子たちはまだまだ幼く、母の愛が必要な歳だ。この状況下で、


――約束の三年になったから。


 などと言い出し、一人だけ村を去るなどと、そんな所業に及べるのなら、そもそも周子は端から大井澤村に帰って来などしなかったに違いない。


 彼女は、残った。


 当初の予定の「三年限り」を遥かに超えて、昭和三十七年に53歳で永眠するまで、ずっとこの村に留まり続ける。


 その日常は、文字通り目の回るような忙しさだった。

 


 昼間は診療所の仕事に追はれ、夜は夜で父や弟妹の食事の世話から一切を引きうけたまには夜中に叩き起こされて急病人の往診にゆかねばならぬ。どんな寒い夜でも、彼女は一度も断ったことがない、それは、もし断って病気が重くでもなれば、けっきょく一人しかゐない彼女自身が後始末をせねばならないからであった。
「まったく、私は自分で病気をするひまもありませんでしたわ」
 しみじみ述懐されているが、自分で病気をするひまもないとは、なんといふ痛烈な比喩であらう。
 私はこの話を聞いて、ふと、キュリー夫人を想ひうかべた。(186頁)

 


 本当の意味で強さと優しさを兼ね備えた女性であろう。
 大和撫子とは、実にこの志田周子の如きを言う。

 


 数日間の滞在を通し、彼女の人格にとく・・と触れ、深い敬意を抱くに至った福岡隆はその去り際に、

 

 

ひと筋に村を興せし老父ちち
すくよかにあれ永遠とわに忘れじ

 


 このような詩をしたためて、その健康と幸福を誠心誠意祈念している。

 

 

野口英世 (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記 (1))

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