天性の狩人と呼ぶに足る。
猪の下顎、つるりと綺麗に白骨化したその部位を、所蔵すること二百以上、特に形の優れたやつは座敷の欄間にずらりと架けて雰囲気作りのインテリアにする、そういう家に生まれ育った影響か。
久連子村の平盛さんは、ほとんど物心つくと同時に「狩り」に異様な魅力を感じ、黒光りする猟銃に
(Wikipediaより、猪の骨格)
久連子村。
くれこむらと読む。
独特な風韻を帯びた名だ。こういう響きは、平地よりも山里にこそよく似合う。果たせるかな、久連子村の所在地は秘境と呼ぶに相応しい。九州中央山地の西部、人煙稀なる山また山の奥深く、平家の落ち武者伝説を発祥に持つと言われても誰も疑問に思わない、かなりメジャーな「隠れ里」――「五家荘」を構成する一聚落。それが久連子村の
(五家荘小原の部落)
鳥や魚の死体を海中に
と、田中阿歌麿なぞが書いたものだが、しかし海から程遠く、流れといえば谷川ばかりな久連子村ではこの方法は使えまい。埋めたか、煮たか――いずれにせよ格段に時間を要しただろう。
それを実に、二百以上も。このコレクションには執念が在る。先祖代々、狩人の家系であってこそ達成し得る集積だろう。
平盛氏の父親も、それはそれは腕っこきのハンターだった。久連子どころか、五家荘全体で数えても屈指の技量の持ち主だった。その父親が息子に対し、これだけは決して背くなと訓戒したことがある。
「狩りをするのは結構なことだ。しかし熊ばかりは進んで獲るな」
山の掟といっていい。
(五家荘の吊橋)
理由については、
「熊を獲るには月の輪を撃たねばならないが、それをすると自分はよくとも家族に難儀が降りかかる。不具の子が生まれやすくなる」
土くさい迷信に基いたもの。
似たような観念は、日本各地の山峡に
父は更に語を継いで、
「だがしかし、熊の側から向かって来るなら話はべつだ。この場合は、狩人の意地にかけてもぶち殺せ」
「例外事項」を付け加えるのを忘れなかった。
秋霜の如き苛烈さである。
以上の教えを説いてから、さまで合間を空けずして、父なる人は世を去った。
ついここまで書きそびれたが、一連の話は昭和十年代後半に、民族学者の早川孝太郎が五家荘を訪問し、平盛氏に誼を通じて試みたインタビューに由っている。ゆえ、九州の熊は絶滅前で、久連子村の狩人がそれを撃つのも可能だったというわけだ。
フィールドワークの成果として、早川は他にこんな報告も寄せている。
熊は殺してから横にして置くと、胆が流れてしまふとは、遥かに東国の三河・遠江などの狩人の間にも語られて居るが、五箇ノ荘にも同じ説がある。もう六十余年も前に、久連子で一頭の熊を捕った時に、商人の来る迄の間、胆が流れると云って、梯子に前後の肢を括りつけて、恰もはりつけになった者のやうにして立たせて置いた。これは今年九十二歳の老媼の実見談である。
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