これまで触れて来た通り、大井澤村という山形県の仙境で、とにもかくにも医師としてやっていくことになった志田周子。しかしながらその足取りは決して順調とは言い難く、どころか逆に、のっけからしてつまずいたとさえ言っていい。
なにしろ「前提」ですらある、診療所建設の段階から難航している。
間口六間、奥行四間のこじんまりとしたこの建物――。
診療所の位置は、ほぼ村の中央にあり、そのすぐ後ろには、滔々と流れる寒河江川をへだてて截りたった前山の断崖が迫ってゐた。(『甦へる無醫村』157頁)
と福岡隆が描写したこの木造建築を現出するのに、要した費用はおよそ3000。
むろん、日本円である。
それに加えて、ハコだけ作って中身がカラでは意味がないから、診療所と名乗る上で最低限必要な設備を整えるのに更に500。計3500円の買い物だった。
そのうち1500円は、県の財政から引っ張った。
所謂補助金というヤツである。
大正三年の帰村以来、教師として未来を育む一方で、たびたび村長職をもつとめあげていただけに、そういう分野の話となると志田荘次郎は強かった。ついでながら福岡隆が大井澤村を訪れた昭和十八年の時点に於ける村長は、志田
費用の残り2000円は自腹を切ってこれをあてがい、さあいよいよ着工と相成ったわけだが、木材の入手難という事情から工事は予想外に捗らなかった。
周囲を山林で十重二十重に包囲されているにも拘らず、木が足りないとはなんたる皮肉か。荘次郎翁の初期プランでは、遅くとも七月末までには建築を済ませ、娘が帰還さえすれば、翌日からでも診療所を始めることが可能なような、滞りの一切ない、それこそ水の流るるが如き滑らかなる展開を思い描いていただけに、たまらなく気が
結局建物が仕上がったのは、遅れに遅れて十月に突入してからのこと。
その間、周子は周子でただ昼寝をしているわけにもいかないから、やむを得ず自宅の裏の物置を改造して仮の診療所にあてていた。
そんな父娘を、当の村人たちがどんな眼で眺めていたかは想像するに難くない。
彼らはこの悪戦苦闘をせいぜい「お嬢様の道楽仕事」程度にしか看做しておらず、いざ彼女が完成した診療所に入っても、滅多に診てもらおうとはしなかった。
人間といふものはおかしなもので、どんなにいい腕をもってゐても、鼻たれ子供のころから知り抜いてゐる者にはなかなか信用をおかないものである。(中略)いくら女子医専をでたバリバリの医者であっても、あまりにもよく素性を知りすぎてゐるので、村人たちは年とった町医者の方が理屈なしに偉さうにも見えたし、また信用がおけたのであらう。だから、よくよくの重病人でないかぎり、周子さんの診断をうけようとはしなかった。(181頁)
以前書いた「預言者郷里に容れられず」の典型が、こんな山里でも行われていたわけである。
たまに舞い込む仕事と言えば、卒中で爺さんが斃れたんで死亡診断書を書いてくだせえだのなんだのと、死人にまつわるものばかり。
医者としての誇りをこれほど傷付けられる待遇も珍しかろう。これではまるで、検死官になるために帰ってきたようなものではないか。
(このままでは、とても、駄目だ)
ここに至って、周子は認識を改めざるを得なかった。都会の医者の意識のままでは、到底通用するものでない。
患者のくるのを待つ、といった今までの消極的な態度ぢゃとても駄目だ。こちらから積極的に一戸一戸押しかけて行って、健康状態をしらべあげ、そして根本的な体位の改善をはからう。(193頁)
そのように決意したとのことである。
診療の合間を縫うようにして家庭巡廻を始めた周子の姿に、村人たちは奇異の目で報いた。
それはそうだろう、彼らの意識下にあって志田周子とは一個の「死亡診断書発行機」に他ならない。
それ以上を望んだことはなかったし、それだけでも十分役に立っていた。
ところが何を思ったか、この「装置」ときたらある日を境に自発的に動き出し、各家庭を訪問しては台所まで調べ上げ、栄養指導だのなんだのと、わけのわからぬお題目まで唱えはじめたではないか。
反撥を招くのは必然だった。ある家では彼女の努力を「押しかけ往診」と、あたかも「押し売り」の一種めいた扱いをして、断固戸を潜らせなかった者もある。
が、周子の見た大井澤村の実態は、そんな程度の障害でへこたれている余裕さえもないほどに、惨憺たるものだった。
――この村の人々のあたまには、「衛生」という意識が致命的に欠けている。
調べれば調べるほど、そう思わざるを得ないのである。
なにしろ村人たちときたら、雑巾を絞ったバケツで食器を洗い、「湯手」と称するたった一本の手拭いを、風呂に入る時などは家族中で使い廻している始末。
雑菌に、どうぞ繁殖してくださいと、態々スイートルームを提供しているに等しい愚行。
乳幼児の扱いに至っては、更に深刻といっていい。
子供が三つぐらゐになるまで平気で乳をのませるため、皮下脂肪がなくなって皮膚の色が蒼白くなり、消化不良でつひに愛児を亡くした母親があるかと思ふと、ある農家などでは、母親が野良へ出てゐる留守に、まだ、ヨチヨチはってゐる幼児が半煮えのじゃが芋を食べて消化不良を起し、それが因で死亡したといふ悲惨な出来事もあった。(174頁)
親のちょっとした不注意で幼い命が
が、この問題は単に母親を教導すればいいという、そんな底の浅いものではないのだと、やがて周子は思い知る。
「乳幼児は絶対に死なさぬ」と気を吐いて、事態改善に尽力する志田周子。そんな彼女の前に立ちはだかったのは、数ある田舎の陋習の中でも最悪のモノ。
――嫁姑問題という、人間性の暗がりの、いちばん隠微で湿った場所に巣食う存在に他ならなかった。
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