少し前、インドからこんなニュースが伝わってきて世を騒がせた。
警官が集団強姦殺人事件の容疑者たちを皆殺しにしたという。
現場検証に赴いた先で、容疑者の一人が銃を奪って逃走しようとしたがゆえの、やむを得ぬ措置であったという。
たまたま目についた二十代の女性を相手に集団暴行を加えた挙句、生きたまま焼き殺すという人非人の所業を犯した者どもゆえに、インドの人々はこの展開を大歓迎。よくぞやったりと警察官を褒め称え、花びらを撒き、万歳が木霊したという。
是非善悪はさておいて、この事件は私の中の、とある記憶を刺激した。
享保十二年(1727年)、前田武兵衛という人物によって出版された、『万物故事要決』なる書物にまつわる記憶である。この書は
天竺に犯の実否を知るに、四法あり、水火称毒と云ふ也。水とは犯人と石とを袋に入れて、水に沈むるに実犯の者沈み、不犯者は沈まず、二に火とは鉄を赤く焼きて、其の上に坐せしむ、或は足を以て踏ませ、或は舌を以て舐めらするに、犯せるは焼け、犯さざるは焼けず、身弱き人の火気に堪えざるをば、火に向かひてつぼめる花を投げさするに、犯さざるは花開け、犯す者は花焦がる、三に称とは
と、理性ある人間が正気でやるとは、にわかに信ぜられないものだった。
容疑者を石と一緒に袋に詰めて水に投げ込み、沈めば有罪、浮けば無罪とは、なんという滅茶苦茶であるだろう。これではほとんど魔女裁判と変わらぬではないか。
「火」の項に於いてもそれは然り。真っ赤になるほど熱しきられた鉄片なんぞ握ろうものなら、火傷を負うは有機体として必然の定め。罪の有り無しなぞ、何の関係があるという。
出版されたのが鎖国体制下真っ只中の日本ゆえに、又聞きの更に又聞きで、原形を留めぬほどに誇張された記述となってしまったのだろう。当時の私はそう考えた。
ところがその後、似たような事例――この種の神明裁判は、世界各地の古代社会にまるで通過儀礼の如く当たり前に見られるのだと様々な文献によって知り、私は考えを改めざるを余儀なくされた。
あの荘厳なる古代ギリシャ世界さえも例外ではない。Feuerprobeと呼ばれるその儀式のあらましは、沸騰している湯若しくは油の中にあらかじめ、指輪や石といった品を沈めておいて、容疑者にこれを素手で以って取り出させるというもので、専らアポロン神殿に於いて営まれた。
我が日本国の
そんな光景を繰り返しつつ、兎にも角にも文明は進歩してゆくのだろう。なんとも胸の高鳴ることではないか。
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