慶應義塾は頻繁に「初物食い」をやっている。
先鞭をつけるに堪能である印象だ。
鉄棒、シーソー、ブランコ等を設置して、以って学生の体育に資するべく、奨励したのも慶應義塾が
明治四年の事である。
これからの時代、およそ文書の作成にタイプライターの活用が不可欠たろうと推察し、カリキュラムに組み込んだのも、最初はやはり慶應義塾商業学校こそだった。
明治三十六年の事である。
(Wikipediaより、タイプライター)
なお、このタイプライター講座については特別に、「同校旧卒業生及び本塾大学生普通学部の志望者にも来学を許す」措置を取ったとの由だ。
前者については福澤諭吉の肝煎りなれど、後者についてはさにあらず。約二年前、明治三十四年を境に、福澤諭吉は黄泉の客となっている。校祖逝いても、彼の掲げた進取の気質は経営陣に脈々と受け継がれていたようだ。少なくとも、この時点では、なおもまだ。
――以上は即ち、『森銑三著作集 逸聞篇』にて見かけて以来、ずっといつか使いたいと機を狙っていたネタである。が、ついに相応しい時を見出せず、今日のこの時、この瞬間まで至ってしまった。
予感がする。このままいくと永遠に――少なくとも私のブログの中に於いては――日の目を見せてやれそうにない、不吉な予兆の感覚が。
それゆえ今回、ちょっと吐き出させていただいた。漸くのこと、胸のつかえが取れた気分だ。
(飛騨高山レトロミュージアムにて撮影)
神の火空より射降らす如く、
横さにまともに魔の
紅蓮は逆巻き陥る旅順、
勝鬨揚げずや義人よ友よ。
十年臥薪の時空の橋の、
落ち合ひ湧き立ち
勝鬨揚げずや義人よ友よ。
東西文明
この月この時天定まるや、
半死の亜細亜は甦らんぞ、
旅順は落ちたり勝鬨揚げよ。
以上、中村星湖で「旅順陥落」。
これまた同じく使いどころを見失い、失い続けたモノである。
山梨出身の詩人であるということで、――同じ甲州人の血をルーツに持つということで、
芸術家をして功名心の奴隷であるとバッサリ切った点なぞも、個人的にはポイント高い。「芸術家は専制主義の人ではあり得ても無政府主義もしくは民主主義の人ではあり得ない。時代がいかに進展しようとも、結局彼等は功名心、栄達の奴隷であって平和、平等の使者ではなさゝうである。これは全然非難すべきではなくて、多少とも是認されなければならない事である」。やはり
(昭和初頭、河口湖)
たまにはこういうささやかな「ネタ供養」も悪くない。三年ぶりにそういうことを考えた。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
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