立ち読み中にふと目についた、
――自分の経て来た生涯のどの部分を顧みても愉快に率直に過ごせたとは思へない
という一文に惹かれた。
いかにも私好みの、厭世的な香りがする。
それがこの、昭和十六年刊行、原田実著『閑窓記』を購入した主因であった。
果たして本書の内容は、私の趣味を大いに満足させてくれるものだった。
私は日記をつけないことにしてゐる。曾てはつけたこともある。詳細に心持ちの起伏まで書きつけたこともある。然し今日では敢てつけないことにしてゐる。ひたむきに自分の心持ちに見入ることは、自分のやうに悔いの多い日を重ねがちのものには、重荷過ぎて堪へられないことが多く、反省が自分の精神力に一層の振起を激励するよりは、却て再び立ち上がり得ないやうな疲労を与へることを痛感した。
から始まって、
私にとっては自己反省といふ倫理的常道が自分を殺すことになるといふ一寸普通とは逆の現象が起るので、おのづから自己保護の為めに私は日記をつけないことにしてゐる。済んだことはそれでよろしい、考へまいといふ横着な趣向だ。但し、過去の責任を負ふまいといふのではない。責任は所詮来たるべき明日の生活において負ふほかないから、その明日のエネルギーを慮るので責任回避では毫末もない。言ひかへればセンチの克服なのである。
に繋がり、
センチは精神力を眠らすアヘンであるが、それを逞しくはしないもののやうだ。
と結ばれる一連の独特な日記観には、感銘を受けるところ大だった。
なにやら久米田康治が『さよなら絶望先生』の単行本末尾に掲載していた「紙ブログ」にも似た感触があって味わい深い。
原田実は大正・昭和に活躍した教育学者。文学博士の学位を有し、早稲田大学の教授でありながら同校図書館の館長職をも兼任した人物で、1961年に定年退任した際には名誉教授に叙せられている。
『閑窓記』を読む限り、彼の指導に浴し得た学生たちはさぞや幸福だったろう。
――そんな原田実であるが、彼が年来の所信を敢えて曲げ、数十年ぶりに日記をつけた時期がある。
昭和十年から同十一年にかけて行った、およそ一年半にも及ぶ、外遊期間がそれである。
海外の教育事情を視察目的で始められたこの外遊中の出来事を、原田はその一風変わった感性のもと筆写しており、読者をして少しも飽きさせることがない。
たとえばイタリアを訪ねたときだ。
ローマやナポリ、フィレンツェ、ヴェネチアといった各都市の持つ景観や芸術の美しさには惜しみない称讃を贈る原田だが、反面彼の地の子供達には手厳しく、「概して貧寒で訓練も教養も足らない」とこき下ろしている。
…ややもすると煙草を呉れとか、おアシを呉れとか寄りたかって来る。巻煙草をやったりすると、十歳にも足らぬやうな子供が小生意気にスパスパと喫ったりするのであった。
ヴァチカンの世にも美はしい殿堂の広場に大きな噴水があるが、そのまはりなどにゴミのやうに汚たなく、そのやうな子供達の群れてゐるのは甚だ遺憾に思はれた。そんなのを私は努めてカメラに収めるやうにしたが、写真にとったことでもわかると、必ずたかって来て代償を求めるのである。町に遊んでゐる子供達の態度や教養の点からいふと、イタリーはまだまだ一流教育国には遠いやうである。(191~192頁)
この遠慮会釈のない、而して下品さを伴いもしない書きぶりは、高い知性の裏打ちなくして不可能だ。
原田が特に好んだ詩に、英国詩人コールリッジの
“All knowledge begins and ends with wonder, but the first wonder is the child of ignorance, the second wonder is the parent of adoration.”
という作品がある。原田はこれを
「あらゆる知識が驚異に始まって驚異に終る、然し最初の驚異は無知から生じ、後の驚異は崇拝となる(53頁)」
と翻訳し、以下の如き解釈を加えた。
知識が進んで来るに従って、驚異を感じなくなるは一面の真理である。無知の為めに驚異を感ずるのであるから、その無知を克服して知識を獲得するに至れば、その驚異は感ずるに足らないものとなって霧消する。(中略)人が普通に、科学の進むに従って迷信や偏見が取り除かれてこの世に不思議とするものが無くなり、その結果は宗教的の情操をも退化せしめるなどと謂ふのも、この点から一応は尤もとして納得せねばならぬ。
然しまた、知識が非常に進んで来ると、却って自然や人生に対して驚異の心が起り、真に眼に見えない或る大いなる力に対する崇拝の心が湧いて来るといふこともまた他面の真理であることを知らねばならぬ。コールリッジの所謂「後の驚異は崇拝となる」である。(中略)今日の世界において科学こそは真に宗教の苗床であると私は考へるのである。(54~55頁)
私が愛好してやまないコズミックホラーの深奥にも、どこか通ずる論である。
(らせん星雲NGC7293の赤外線映像、通称「神の目」)
嘗て、「神とはその時代に於ける最高理想」と説明した者がいた。子供が産まれるメカニズムさえも分からない、人類の知見未だ啓けぬ蒙昧時代であればこそ、海を割ったり水をワインに変えたりした程度のことで崇拝されもしたのだと。
が、今日びそれしきの所業を「最高理想」に掲げるようでは、あまりに意気が小さすぎる。現代社会で再び「神」と仰がれるには、その存在が最低でも宇宙規模に達しなければ不可能であろう。
その筆法で考えるならクトゥルフ神話の登場は、まことに時代の流れに沿った、必然の出来事のようにさえも思えてくるのだ。まあ、昨今ではそのクトゥルフ神話もニャルラトホテプだの何だのと、一部のキャラクター性ばかりが先行し、形骸化が深刻な向きもあるのだが。
こんなことを書いているとまたぞろ『Bloodborne』について語りたくなって来るわけで、しかしながら流石にそれは脱線が過ぎるのでやめておく。
閑話休題。
科学万能の思潮によって古き信仰一切が「迷信」として否定され、あらゆる神秘・奇跡の権威が「集団催眠」「根も葉もない後世からの創りごと」として打ち砕かれる、世界規模での幻滅作業の真っ只中に上記の見解に到達するのは尋常ではない。
世界に誇る日本人とは、原田実の如きを言おう。
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