これもまた、ヴェルサイユ条約が生んだカオスだろうか。
ドイツ、ラインラント一帯に不穏の状あり。共産主義者が労働者を煽動し、エッセン、ドルトムント、ミュールハイム等々の諸都市で蜂起、同地を瞬く間に占領下に置いてしまった――1920年3月の「ルール蜂起」が勃発したとき。
ドイツ政府は、軍を動かし事態の収拾を図ろうとした。
当然の判断であったろう。赤軍の戦力はざっと50000人程度、大量の銃火器で武装して、しかも第一次世界大戦の復員兵が数多く参加していると来た。事態はどう贔屓目に見ても、警察の対応能力を超えている。
(Wikipediaより、ドルトムント市街を警邏する赤軍兵士)
が、ここで障害となる条件が一つ。
該地方はヴェルサイユ条約の規定によって、紛れもないドイツ国内でありながら、しかしドイツ軍の立ち入りを禁ずる非武装地帯と設定されていたのである。これが政府の対応を、著しく誓約した。進入許可を連合国に請求するも、事は容易く運ばない。
ちょうどこの時期、パリでは列国間の大使会議が開かれている。
その席に、フランスは早速この問題を持ち出した。首相ミルラン主張して曰く、
「ドイツは連合国の許可の有無に拘らず、兵を中立地帯に入れるに違いないから、連合国はこれに先立ちて同地方を占領すべきである」
どうも彼はこれを機に、フランスの国境をライン西岸一帯まで拡張、国威燦たるナポレオン一世のあの頃を再現しようと計画していたようである。
が、そうは問屋が卸さない。この件についてイギリスは、あくまで範囲をドイツ国内問題に止め、ドイツ自身の手で処理させようと考えていた。
駐仏英大使エドワード・スタンリーはその方針をよく理解して、反対論の第一線を張り通し、梃子でも動かぬ構えを見せる。痺れを切らしたフランス側が、
「ルール地方は出兵を必要とするほどに乱れてはいない。従ってドイツの派兵要求は疑うべき理由がある。しかしながら若し強いて出兵の要あらば、連合国に於いてこれに当たるべきである」
わかったようなわからぬような、要領を得ぬこと
「ルールが乱れていないなら、連合国も出兵の必要がないではないか」
ずけりと突き込み、フランスの動きをいよいよ掣肘するに至った。
日は進めども、何一つ決まらないまま会議は続く。
堪らないのはドイツであった。これ以上手を拱いていようものなら赤軍はいよいよ増長し、騒ぎはルール地方に止まらず、その周辺へと更に更に波及する。そう、まるでドミノ倒しか何かのように――。
万已む無しと覚悟を決めて、彼らはついに連合国の許可を得ぬまま軍をルールに突入させた。
この展開を目の当たりにして、フランスは内心、躍り上がらんばかりに喜悦した。
もっとも表面上は激怒を装い、ドイツの条約破りを厳しく批難し、
「我々はこの事態に鑑み、フランクフルト、ダルムシュタット、その他三都市を占領するの必要を見る」
と勇ましく宣言。すべての反対を押し切って、声明の内容をたちどころに実現させた。
(ライン川)
腹の底から激怒したのはイギリスである。勢力均衡の信者たる彼らにとって、フランスのラインラント領有など到底認められる沙汰ではない。ドイツだろうがフランスだろうが誰であろうが、欧州に於いて最強国になることは、即ち英国の敵たることを意味するのだ。
その原則に基づいて、彼らは早速行動を始めた。
「フランスの行動に対しては、何ら責任を分かつことが出来ぬ」
と冷厳たる態度で報い、彼らの「軽挙」をきつく戒め、断々乎として責めの論調を打ったのである。
フランスにしてみれば、当てが外れた。
赤軍を駆逐し、事態が終熄してからも、
「ドイツが撤兵するまではここを去らない」
と頑張り通し、占領を続けてはみたものの、苦し紛れに過ぎないであろう。ラインラント一帯に分離独立工作を施し、傀儡政権をでっち上げ、己が保護国とする華麗な夢は、ついに夢のまま空中楼閣と化し去ったのだ。
フランスの失望ただならず、その失望がそっくりそのままイギリス憎しの怨嗟の声に変わるまで、そう時間はかからなかった。これ以降、両国間の感情は、1904年の英仏協商締結以来最悪の水準まで悪化する。
(Wikipediaより、協商締結を記念する絵葉書)
街には挙国一致的の対英プロパガンダが横溢し、議会に於いては
「英国はドイツの歓心を買い、フランスをして独りその怨みを受けしめんとするものである」
と発言した代議士が喝采を浴び、更に転じて、
「これフランスがイギリスを棄て、他に依頼すべき国を求むるの必要を如実に証明したものである」
との結論に達したというから、なんともはや凄まじい。
歴史に名高いルール占領が起きたのは、これより僅か3年後、1923年のことだった。
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