彼の運命は哀れをとどめた。
ボルネオ島バンジャルマシンでビリヤード店を経営していた日本人の青年で、
下の名前はわからない。
いつもの通り、「某」の文字で代用しよう。
さて、この西荻青年の店の扉を。
大正四年の春の暮れ、四人の客が押し開けた。
(Wikipediaより、バンジャルマシン)
何れも同地駐屯のオランダ軍の下士官で、筋骨の逞しさは言うまでもない。彼らはときに歓声を上げ、ときに舌を激しく鳴らし、球の行方にいちいち一喜一憂し、芯からゲームを楽しみ尽くした。
そこまではいい。ここはパリでもロンドンでもない、赤道直下の未開地だ。文明国とは自ずからマナーも異なろう。そのあたりの呼吸については西荻青年も十分呑み込み、口やかましく咎め立てたりなどしない。
が、しかし、だからといって。
「お待ちください、お客様」
越えてはならない一線というのは存在するのだ。
「お支払いがまだでございます」
料金を踏み倒されるとあっては、流石に黙っていられなかった。
まるでカウンターの西荻が、視界に映っていないが如く。オランダ人らは彼に一言の挨拶もなく、一文の銭も支払わずして、悪びれもせず堂々と、肩で風切り退店しようとしたのである。
「おお、忘れておった」――と、頭を掻き掻きすっとぼけでもしていたならば、万事丸く収まったろう。
ところが事実は反対で、注意を受けたオランダ人らは途端に激昂。口汚く罵りながら鉄拳をふるい、西荻を袋叩きにせんとした。
(あっ、やりやがったな)
西荻とて、広い世界で自己の運命を開拓せんと野心を抱き、南半球のこんな場所まで好き好んでやって来た志士。鼻っ柱の強さにかけては前後に落ちぬ自負がある。
このままリンチされ続けるのは堪忍ならぬところであった。
「寄るな、寄るんじゃねえ、この毛唐めら」
殴られながらもどさくさ紛れにナイフを掴み、切っ先を鋭く光らせて、「けだものども」の牽制に努める。
が、結局はこれが墓穴を掘った。
兵士の一人が睨み合いから脱け出して、警官を引き連れ戻って来たのだ。むろん、この警官も一人残らず蘭人である。
形勢は不利、どころではない。潰滅的といっていい。勧告に従い、ナイフを捨てた西荻に対し、再び暴行が始まった。警官たちは止めるどころか、一緒になって殴る蹴るを繰り返す始末。
(畜生。……)
この惨めさはどうであろう。必死の抵抗は事態を微塵も好転させず、地獄を更に深めただけに終止した。身も蓋もないこの現実を前にして否が応にも思い出すのは、昭和二十年八月十五日以降――敗戦直後の我が国に於ける惨状である。
(昭和二十年九月八日、東京に進駐した米軍)
西荻青年から見れば数十年後の未来に当たるあの時分にも、日本人は外国兵士にさんざ痛めつけられた。通りすがりにぶん殴られたり、橋から投げ落とされたりはまあ序の口で、「マッカーサーが厚木に降り立った日、横須賀の民家に米兵二人が押し入り、主婦を犯した。
翌日は日比谷公園で米兵が通行中の車をカージャックした。車から引き摺り降ろされたのは池田勇人、前尾繁三郎ほかだった。
その翌日、房総で出征兵の妻を米兵の集団が強姦し、同じ日、横浜の野毛山で二十四歳の女性が米兵に拉致され、彼らの宿舎で二十七人に暴行された。
いずれも鶴見俊輔『廃墟の中から』による。同書には調達庁の調べとして占領期間中、毎年平均三百五十人の日本人が殺され、千人以上の婦女子が暴行されたとある」。(高山正之『日本よ、カダフィ大佐に学べ』35~36頁)
無惨どころの騒ぎではない。
言語道断の沙汰だった。
祖国が骨まで蹂躙されるこの有り様を前にして、いつまでも虚無感に苛まれてはいられない。嘆く同胞を救わんと、勇猛心を奮い起こした日本人とて少なくなかった。
そんな彼らに、占領者はどう答えたか。
これがまたぞろ秀逸なのだ。
友人のK記者は憲兵司令官に会見を申し込み、不法行為をする占領兵に対して、日本人は正当防衛権はあるか――というインタヴューをやったことがある。
司令官の答えは、正当防衛権は無論ある。しかし、力を持っていなければかえって抵抗することは危険なのではあるまいか――という返答だったと話していた。(中略)この答えは理屈に合った答弁である。熊と、猫の間には、正当防衛権はあっても、まず猫が正当防衛権を行使しても勝味は少い。猫は、熊の影を踏まないように退散するのが安全をはかる道なのだ。(『秘録大東亜戦史 原爆・国内篇』118頁)
(昭和二十八年の数寄屋橋。占領期間中、よく日本人が投げ落とされた)
人間世界はどう足掻いても、何所まで行っても力の世界だ。
大正四年のボルネオで西荻某を襲った事態も、結局はこの猫熊式と同一原理にあるだろう。
抵抗する気力も失せたこの青年を、オランダ人らは警察署までひきずってゆき、更に暴行を加えいたぶり尽くした。
一歩間違えば死んでいたろう。
また、仮にそうなったとしても、加害者たちの心には虫が死んだほどの感慨も湧かなかったに違いない。
後日、事件を知って仰天した同地の日本人会が知事に面会を申し込み、「本件は貴国の警官と兵卒共同して日本人を侮辱したるものなるに就き、充分取り調べの上公平なる処置あらんこと」を要求したが、当然の如く握りつぶされ、なんの功も奏さなかった。
(Wikipediaより、オランダ、デン・ハーグの国会議事堂)
顧みればオランダは、投降した日本兵に対しても随分酷烈な復讐裁判をやってのけた国だった。
刑場で銃口の前に立つとき、正義の名に隠れて、不正義極まる戦争裁判をやってゐる和蘭国は、後五年以内に滅亡することを予言すると共に、吾々死刑者の霊魂は、その実現を見てから天国に昇るであらうと絶叫してやるつもりです。(『殉国憲兵の遺書』401頁)
陸軍憲兵中尉浅木留次郎の遺書である。
昭和二十三年九月二十三日、刑死。享年四十五歳。
当時の日本軍人をしてここまでの内容を書かしむるとは、余程のことがあったのだろう。
南溟に悲愴の種は尽きない。
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