英国籍の商船が、荷降ろし中に誤って石油樽を海に落とした。
当時の世界に、ドラム缶は未登場。ネリー・ブライがそれをデザインするまでは、もう十三年を待たねばならない。
(Wikipediaより、ネリー・ブライ)
落下着水の衝撃に、ドラム缶なら堪えたろう。手間は増えるが、回収して終わりに出来た。なんてことないトラブルだ。しかし木樽ではそうはいかない。あえなく砕け、中身がみるみる拡散される。汚染域に居合わせた、不運な魚類が次から次へと水面に浮いた。
明治十九年六月の、横浜に於ける出来事である。
それ自体は取り立てて騒ぐに及ばない。以前の記事でも少しく触れたが、港湾作業中の落下事故など毎日のように起きている。流出したのも原油ではなく石油に過ぎず、タンカー事故にあらずして所詮木樽の容量だ。汚染といっても、規模の
問題はむしろ、なんだなんだと三々五々に集ってきた見物人らの反応だった。
「あれをみろ」
白い腹を晒して浮かぶ魚どもを指差して、誰かが頓狂にわめいたらしい。
「海水と舶来油を混ぜ合わせれば、斯くも苛烈な殺菌力を発揮する。さればよ、最近流行りの厄介至極な淋病も、この服薬でたちまち療治に相違なし」
馬鹿げているにもほどがある。
彼の脳内でどういう衝突事故が起こってこんな
――もっともなことだ。
と無批判にこれを受け入れて、
――この大発見、見逃す手はない。
我も我もと石油汚染の海水を汲み取りだしたことである。
嘘のような話だが、当時の『郵便報知』にもしっかり掲載されている点、信憑性はかなり高い。
明治十九年にもなって。
学制施行後、十四年も経ちながら。
場所もあろうに、日本国の玄関口たる横浜で。
なんだってこんな事件が起きる? ――福澤諭吉ならずとも顔を覆いたくなるだろう。
森有礼が教育改革に力瘤を入れた動機についても、おのずと察せるというものだ。有礼といえば、この初代文部大臣の人柄を表す格好の逸話をちかごろ仕入れた。御当人の伝記からだ。
金沢最初の高等学校設立の際、開校式にお呼ばれした有礼は、途中演説を求められ、やおら壇上に身を運び、
「新日本の文明は王政維新の結果である。王政維新は聖天子の御明徳によって成就されたのであるが、能く之を
こんなことを喋ったという。
型破りにも限度があろう。
前途を祝いに行ったのか、喧嘩を売りに行ったのか、これではとんと分からない。
実際問題、案の定、ぜんぶ言い終える前から既に方々より罵声続出、中でも金沢出身のとある武官は怒髪天を衝くあまりさっと帯剣を素っ破抜き、
「何をほざくか、失敬なッ」
文部大臣を「無礼討ち」に処するべく走り出したほどだった。
目賀田金沢連隊長が咄嗟に割って入らなければ、確実に殺っていただろう。
誰より優れた行政手腕を持ちながら
こういうタイプは往々にして、天寿を全う出来ぬもの。
道半ばにして斃される、その散り様がしかしまた、異様な感興を伴って後世に迎えられもする。
本人がそれを喜ぶかどうかは知らないが、とりあえず、まあ、個性的であることだけは疑いがない。
なお、ついでながら森有礼の定評に、「女子教育を重んじた」との一項がある。
これに関して彼の直話を探ってみるに、なるほど確かに以下の如きが見出せる。
「女子でも、国家の為めに身命を
これもまた、森有礼の
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