最初は本気にしなかった。
てっきり何かの冗談とばかり思ったのである。
通済道人お得意の諧謔趣味がまたぞろ顔を出したのだろうと、その程度にしか考えなかった。
通済道人、本名を菅原通済。
やあやあ我こそは菅原道真――天神さまの血を受け継いだ三十六代目の子孫なりと自称して、大正・昭和の政財界に暗中飛躍を試みた、当代きっての曲者である。
そういう男の口唇から、
――津軽海峡が麻痺している。
――ソ連の機雷が出没する影響で、青函連絡船の運航は大いに支障を来しつつあり。夜間の便に至っては、既に絶えたも同然だ。
こんなニュースを説かれたところで、どうして鵜呑みに為し得よう。
が、一応調べて驚いた。
なんと真実ではないか。
昭和二十五年末から二十六年初頭にかけて、特に日本海沿岸に、浮遊機雷の漂着例が激増している。
ソ連製が大部を占める事実から、どうも朝鮮戦争でバラ撒かれたものらしい。何かしらの要因で係留ロープの縛りが解けて、潮のまにまに漂う内に、津軽海峡まで達したヤツも確かに存在したようだ。
そういう危険極まる時期――昭和二十六年六月初頭に、菅原通済は北海道旅行を敢行している。
「北海道アラサガシ巡業団」などと、如何にもこの男らしい剽げたノボリを押し立てて。
(昭和初頭、北海道・大沼の景色)
港は大混雑だったらしい。
青森の乗船待ちのひとときはテンヤワンヤの語につきる。昼間しか動かない連絡船めがけて一度に殺到する乗客は、少しの統制もなく、改札も待たずに雪崩れ込むからテンヤワンヤなのである。駅員は一向平気で見送ってゐたが、都合のよい頃に出て来て追い払いを命じてた。(昭和二十七年『土龍の日光浴』166頁)
欠航続きの現状をかんがみ、今度
だがしかし、それにしてもこいつはちょっと。――下村海南が目の当たりにしたならば、顔を覆って嘆きかねない情景だ。
旭丸の悲劇から日本人はついに何も学ばなかったと。自身の努力がふいにされたかのように感じるのではあるまいか。
長崎市営港内交通船第一旭丸といふ五十トンの船が、二百名の客を満載して波止場の桟橋に横附けした時、船体が傾斜して海水が奔流し百余名は船もろ共に沈む、十数名が溺死する、五十余名が負傷した。
桟橋に横附した時に、左舷の乗客が我れ勝ちと一時に桟橋に飛び上がった為め、右舷へ甚だしく傾斜したからである。
かつて東北線の列車が箒川の鉄橋を渡るとき、横ざまに墜落した事がある。それは強い吹き降りで車体が一方に吹きつけられ、さらに乗客がその吹きつけられて傾かんとする側に片寄ってしまったからであった。
一方へ片寄ればその方へかしぐ。一方から急に立ち退けば反対の方へかしぐ。分かり切った事だが、とかく我れ勝ちと片寄る、我れ勝ちと立ち退く。(『通風筒』25~26頁)
(潮岬にて、坂田幹太と下村海南)
昭和九年二月の時点で、海南はこのような記事を世に著している。
翻って国民に規律正しさの重要性を啓蒙し、船であれ汽車であれ、その乗り降りは整然と行わるべきを強く訓戒。このような惨事が二度と繰り返されないことを望んだものだ。
ところがそれから十七年を経てもなお、他者を押しのけ我勝ちにと行動する日本人の姿は絶えない。青森港で、菅原通済の眼を通し、はっきり確認されている。
嘆息するには十二分であったろう。
あるいは本当に
嗚呼、今日このごろの駅のホームを、この海南に見せてやりたい。二十一世紀の日本人はかつて彼が望んだ通り、何事につけみごとな列を成すに至った。先人に対し、胸を張っていいことだ。