穢銀杏狐月

穢銀杏狐月

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

福澤諭吉と山崎闇斎 ―「孟子なりとも孔子なりとも遠慮に及ばず」―

 

 山崎闇斎知名度は、目下どの程度の位置にあるのか。


 百年前と引き比べ、著しく低下したことだけは疑いがない。その当時、彼が説いた「孔孟の道」は日本人が当然もつべき心構えの一つとされて、小学校の教科書にさえ載っており、ごくありきたりな「常識」として誰しもに受け容れられていたからだ。


 その筋書きは、だいたいこんなモノである。

 

 

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比叡山大講堂、明治四十年代撮影)

 


 山崎闇斎、京都の大儒。


 垂加神道を創始して日本人の思想界に重大な波紋を広げるに至るこの人物は、あるときその弟子たちに、こんな問いを投げかけた。


「もしも今、孔子孟子が大将・副将格となり、兵を率いてこの日ノ本へ押し寄せてきたとするならば、我々孔孟の道を学ぶ者は如何なる態度を取るべきか」


 爆弾を落としたといっていい。


 江戸時代、儒者孔子孟子を見る目というのは到底一哲学者に対して差し向けるべきそれでなく。筋金入りのキリシタンマリア観音を拝むに等しい、信仰の籠ったものだった。


 荻生徂徠などはその典型的な一人であって、芝から品川へ転居しては「聖人の国に一里近付いた」と喜んでみせ、あるいはもっと直截に、「愚老は釈迦を信仰不仕つかまつらず候。聖人を信仰仕候」と言い切ってのけたこともある。

 

 

Confucius Statue at the Yushima Seido

 (Wikipediaより、湯島聖堂孔子像)

 


 そういう徂徠にしてみれば、孔子孟子が陣頭に立っての侵略など、これはもう侵略ではなく、濁世を掃き清める目的で天兵が降臨したとしか思えぬ事態であったろう。一議もなく叩頭し、征旅の端に加えてくだされと懇願するのが目に浮かぶ。


 が、山崎闇斎の弟子たちは、まだそこまで――狂信の域に足を踏み入れてはおらず、思い切りが悪かった。


 誰ひとり正答を見出せぬまま、重苦しい沈黙ばかりがのしかかる。


 とうとう一人が音を上げて、降参の意を露わにし、しからば先生の御意見はと逆しまに問うた。


 山崎闇斎、答えて曰く、


「その時こそは身に堅甲を被り、手に利剣をとり、これと一戦して孔孟をとりこにし、もって国恩に奉ずる。これが即ち孔孟の道である」

 

 

Yamazaki Ansai

 (Wikipediaより、山崎闇斎

 


 ――いやさ、実に驚き入った話じゃねえか。


 遥かな後年、そう評したのは福澤諭吉


 この文明の導き手が「甚だ意外」としたことは、闇斎の口吻、それそのもの自体ではない。


 師に説かれるまでその発想が厘毫たりとも浮かばなかった、弟子たちの不甲斐なさをせせら笑ってのけたのである。


「闇斎の門人、前後六千余人に及ぶと伝わる。いずれも当時の日本としては相当の人物揃いのはずで、是非や利害の弁別もあるべきに、ひとり孔孟をとりこにする一事に至って決断することができぬとは、なんたるザマか。かの蒙古襲来の際の如きも、日本全国無学の時代であったが故に辛うじて無事を得たものの、もし漢学が世に蔓延って闇斎門人の如き輩が国政の要路に居たならば、どれほどの国辱を残したかもわからない


 ――その然らざりしは無学文盲の僥倖といふべし。


 と、明治日本最大の教育者である彼は、古人の無知を言祝いだ。


 嘲罵の極みといっていい。


 福澤が如何にふるく腐れた」儒教主義を目の敵にしていたか、これをこそぎ落とさぬ限り文明開化の実を挙げるなど夢のまた夢と思っていたか、手に取るように知れるであろう。

 

 

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(『Ghost of Tsushima』より)

 


 小泉信三進歩的文化人との闘いに於いて、よく闇斎を範とした。


 というのは、この連中のマルクスレーニンに対する視線というのが嘗ての腐儒と同様に、明らかに信仰の相を帯び、その言説を絶対の金科玉条と奉戴し、いやしくも批判を加えるものを「冒涜」として頭から拒絶する傾向にあったがゆえだ。

 


 福澤は「孟子なりとも孔子なりとも遠慮に及ばず」といった。マルクスレーニンに対しても同じく遠慮は無用であることを知ってもらいたい。これが常に私の日本の評論家に求めるところである。(『十日十話』)

 


 小泉らしい、穏当な呼びかけであったろう。


 が、狂信者の相手は――その宗旨がなんであれ――ひどく疲れる。


 彼ほど円熟しきった精神性の持ち主だろうと、その定理からは逃れ得ず。ときには以下に掲げるような、明らかに腹立ちまぎれの文章さえも書いている。

 


 芝居や小説によくこんな場面がある。
 浪人者のような侍が、商人の店へ来て、何かかけ合いごとの論判をする。番頭手代が、おたなのためと色々陳弁して要求をきくまいとする。しまいに癇癪を起した侍は「お前たちでは話はわからん。主人を出せ、主人を」と怒鳴る。
 主人が出て来る。さすが大店の主人にふさわしい貫録で、落ち着いて、十分相手の言い分をきき、自分のいうべきこともいい、結局容れるべきことを聴き入れる。そうして侍も納得して引き上げる。
 私は先年、さまざまの問題について日本のマルクシストと議論したことがあったが、この「主人を出せ、主人を。お前たちでは話は分からん」といいたい衝動を、たびたび感じたことを告白したい。この場合「主人」というのは無論マルクス自身、「お前たち」はマルクシストである。(中略)
 今ここにマルクス自身が現れて、そうして日本語で(私のドイツ語では時間がかかるから)議論するなら――好い通訳があるなら、それでも結構――彼れを問いつめて沈黙させること、そうして私の批判に同意させることは、十分出来ると思う。ただ、マルクス自身でない、マルクシストに同意させることは、自信がない。(『朝の机』)

 


 長嘆息が聞こえるようだ。


 思想の性質、その厄介さをみごとに捉えた名文でもある。

 

 

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小泉信三昭和36年夏、軽井沢万平ホテルにて)

 


 実際問題、あのころの学生や活動家には、いざ共産圏の対日攻勢が始まった場合、嬉々として国内でテロを起こして社会を擾乱、侵略の片棒を担ぎそうな手合いというのがしこたまひしめき合っていた。


 そういう意味でも、保守派のストレスは尋常一様でなかったろう。心痛、察するに余りある。

 

 

 

 

 


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