穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

※当ブログの記事には広告・プロモーションが含まれます

春月ちぎれちぎれ ―流水・友情・独占欲―

 


「私は、水の恋人と云ってもいい位、水を眺めるのが好きな性癖があって、橋の上を通るときは、そこから下を流れる水を見下ろさずにはゐられないし、海岸に たたずんで、いつまでもいつまでも、束の間の白い波線の閃きを眺めるのが、私は好きであった」

 


 一見、穏当な内容である。


 四辺を海に囲まれて、降雨量もまた多く、水の豊かな日本だ。接触の機会が多ければ、目覚める率もいや増そう。こういう趣味の持ち主は、決して少なくないはずだ。


 ただ、これが生田春月の言葉と知ると、ちょっと身構えずにはいられない。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210811170921j:plain

 (ユーシン渓谷にて、2015年5月撮影)

 


 この男の死に様が入水自殺である以上、当然の反応といっていい。昭和五年五月十九日、大阪発・別府行きの貨客船「菫丸」より播磨灘に身を投げた。以来彼の幽魂は、永遠に瀬戸内海の波の合間を漂っている。


 その動機に関しては三角関係の苦悩とか厭世主義の完成とか色々取り沙汰されてもいるが、冒頭の一文を踏まえた場合、あるいはこんな想像も成り立たないか。――かねてより魅せられ続けた美の世界、酒よりも血を疼かせる水の流れのくるめき・・・・に、つい陶酔が臨界を超え、その渦中へと文字通り没入したくなってしまったのではなかろうか、と。


 実際問題、絶景を前に希死念慮が芽生えるのはよくあることだ。


 不安定の極にあった彼の心に、瀬戸内海の風光はまばゆ過ぎたのかもしれない。

 

 

Seto Inland Sea

 (Wikipediaより、瀬戸内海)

 


 ときに、生田春月といえば――。


 と、やや強引な話の転換を許されたい。最近、ある特定の行動中に、しばしば彼の箴言が脳裏をふっとよぎるのだ。


 具体的には、前回の記事でも少しく触れたひぐらしのなく頃にを視聴中。


 曰く、「昨日までの友達が、今日は最も激烈な敵となる場合が世の中には非常に多い」


 曰く、「人間は自分の一番信じ、一番愛したものから、一番手ひどく裏切られる。そんな例は歴史上にもザラにある事だし、自分たちの周囲には、なほ更ら多い」


 曰く、「人間の一生は、友達を失う過程のやうなものだ」


 曰く、「私は今、多くの古い友達について考へる。むかしの友達をおもふのは、あたかも自分の青春の墓を見るやうな思ひがする」


 曰く、曰く、等、等、等――。


 ざっとこのような春月一個の友情論が頭の隅から勝手にあふれ、私を果てしない鬱に導く。


 なんとなれば絶惨放送中である『業/卒』シリーズとはつまり、北条沙都子古手梨花、本来無二の親友であったこの両名の確執に端を発する物語であるからだ。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210811171411j:plain

白川郷の景色)

 


 で、私の心情を開陳すると、梨花が沙都子を「青春の墓」にするような、そんな展開は何を措いても見たくない。私は北条沙都子のような、心根の複雑に入り組んだ、それでいて狂おしいほど巨大な情念に憑かれたタイプの女性というのが、好きで好きでたまらないのだ。幸あれかしと祈らずにはいられない。


 この偏りの出発点ははっきりしている。アルトネリコ2を通して瑠珈・トゥルーリーワースに邂逅して以来のことだ。ああ、彼女のコスモスフィア精神世界は実にみごとな出来だった。


 Lv7初体験の衝撃は、たぶん一生忘れられない。


 以下、その大胆な告白から掻いつまむ。なお、「クロア」というのは主人公の名前であること、一応前置きしておこう。

 


「違う? どうして…?
 どうして私に反論するの…?
 だってクロアは私のことが好きなんでしょ? 誰よりも何よりも、一番好きなんでしょ?
 だったら私の言うことに賛同してよ。クロアが自分よりも私のことを愛しく思う気持ちを見せてよ!
 私のために何でもしてよ! 私のために自分の身を犠牲にしてよ!
 私のために…死んでよ…」


「大丈夫だよ…。クロアは絶対に死なせはしないもん。どんな状態でも生きてもらうもん。
 愛だけ確認できれば、本当に死ぬ必要はないもの。
 例え身体がまっぷたつに裂けても、指一本動かせなくなっちゃっても…絶対に死なせはしないから、だから安心して…?」


「…え? どうして?
 どうしてそういう事言うの!? 酷いよ! 詐欺じゃない!!」


「それじゃ、本当に私のこと好きになって! 今の数十倍、数百倍好きになって!!
 私のためなら、命を捨ててもいいぐらい、どんな危険なことも、ヤバイ事もやってのけるくらい好きになって!」


「なれ!! 好きになれ!! 私がいなくなったら寂しくて死んでしまうくらい、私のことを好きになれ!!
 私は今までクロアに尽くしてきた! 完璧なくらい、いい女を描いてきた! 嫌われる要素は全部排除してきた!
 私は完璧! 私は嫌われる要素なんて、何も持ち合わせていない!!
 おかしいのはテメェなんだよ! テメェの精神がおかしいんだよ! 異常なんだよ!!」


「苦しい? 私はまだ足りないの…。こんなに強く抱きしめていても、私にはまだ全然足りないの!
 この両腕で締め潰して、貴方のほとばしる血と肉を全身に浴びてもまだ物足りない! それくらいクロアが欲しいの!!
 そうでなければ…不安なの…寂しいの…!!」

 

 

 


 感動的と評するより他にない。


 なんという一途さであったろう。


 こういう台詞を主人公にぶつけてくれるヒロインが、果たして他に何人いるか。そうだとも、独占を強いない愛なぞが、この世のいったい何処にある。


「『私はあなたを愛します』とは、『私はあなたを自分のものにしたい』といふことだ。このわかりきった事がよく間違へられる」


 これも春月の言葉だったか。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210811171812j:plain

柴田ヨクサルハチワンダイバー』より)

 


 だいぶ迷走してきた感があるので、このあたりで切り上げる。


 最後に原点回帰して、水にちなんだ春月の詩を添えておこう。

 

 

澤瀉おもだかの葉のかるくうく
野中の清水しづかにて
昨日も今日も水すまし
澄みたる鏡、影をひく

 


 山梨県西山梨郡里垣村に滞在中、葡萄畑の合間の繁みに偶然見つけた古池を素材タネに、春月はこれを編み上げた。


 そのあたりには現在中央線酒折駅が設置され、電車がときたま出入りしている。

 

 

 

 

 

 
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

夢の分解 ―小氷期を希う―


 夢を見た。


 北海道の夢である。


 かの試される大地の上を、北条沙都子古手梨花――ひぐらしのなく頃に』の主要登場人物二名がバイクに乗って突っ走ってる様を見た。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210809170422j:plain

 


 互いに成長した姿であること、言うまでもない。


 バイクは一台。運転する沙都子の腰を梨花がこう、両手でグッと挟む感じで確保して、つまりはタンデムツーリングの格好で。叫びあげたくなるような青空の下、本州ではまずお目にかかるのは不可能な、むきだしの地平線めがけて単車は一路進みゆく。


 それはそれは美麗至極な眺めであった。


 材料が何であるかははっきりしている。単純に当該作品――『卒』を視聴中であることと、目下読み込んでいる本が、昭和二十一年刊行『随筆北海道』な所為であるに相違ない。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210809170507j:plain

 


 あとがきに惹かれた。

 


 私がさきに「北海道・樺太・千島列島」を編纂してからもう三年たった。その間にわが国のありさまは大きく転回して、今では、あの書題のうちの、樺太と千島とがはっきりとわが国を離れて行ってしまった。それに、台湾がない、朝鮮がない、もとより満洲がない。

 


 このあたりの慨嘆はシベリア抑留からの帰還者・田倉八郎が抱いたそれとほぼ同質といっていい。


 やはり当時の日本人に、ある程度共通の想いだったか。


 が、そこで終わるをよしとせず、

 


 さうなると、北海道といふ、この広い、ゆたかな土地が現在の日本のうちに占めてゐる地位はまた一段と高くなった。日本人は一人残らずもっとはっきりと北海道を見直し、北海道を大切にせねばならぬ。また、ここに住んでゐるわれわれは、ここの良さ、ここの美しさをすべての日本人に十分解らせるやう、あらゆる機会に力をあはせて努めねばならぬ。

 


 残ったものに目を向けて、なあにまだまだこれからサと自他を鞭撻、再起を期して立ち上がらんとす、編者山下秀之助の気概に感じ入ったのだ。


 だいたいそんな経緯によって、買わないという選択肢は私の中から消え失せた。これは是非とも、手元に置きたい。その価値がある一冊だ。――焦燥にも似た情動が、私に購入を決めさせた。現状、ありがたいことに、その判断を後悔せずに済んでいる。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210809170825j:plain

(田辺三重松「函館風景」)

 


 ……しかし、ここまで書き終えて、改めて見返して思ったが。これは果たして夢日記と呼べるのか。夢よりも現実世界の四の五のが、八割方を占めていないか。


 例によって例の如く、蒸し暑さゆえの寝苦しさに禍されて、ろくに夢の内容を記憶できないのが悪い。「夢」それのみでは、とてものこと記事を保たせられぬのだ。さても口惜しき限りであった。


 つくづく以って嫌になる。秋、秋、秋はまだなのか。いっそのこと太陽活動が低下して、江戸時代みたいな氷期に突入してしまえばいい。そんな突飛な思考さえ、近ごろ抱きがちである。

 

 

  

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

すべてはよりよき芸術のため ―手段を選ばぬ男たち―


 紀元前、文明の都アテネに於いて。


 ある彫刻家が裁判所に召喚された。


 容疑は、我が子に対する過度の折檻、虐待である。


 当日法廷に姿を見せた彫刻家は、妙なものを携えていた。


 石像である。


 彼自身の新作で、少年が苦悶する有り様を表現したものだった。


 その身振りといい、表情といい、何処をとっても真に迫らざるものはなく、今にも魂切る叫びが聴こえるようで、あまりの出来に百戦錬磨の法官たちも息を呑み、皮膚を粟立てずにはいられなかった。


 彫刻家、反応をとっくり確かめてから徐に唇を動かして、


「私が息子を虐待したのは、偏にこれを完成させんが為でした」


 悪びれもせず、そんな陳述を敢えてした。


 開き直りといっていい。アテネの司法は、やがてこの男に無罪判決を与えている。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210807170752j:plain

(『アサシンクリード オデッセイ』より、大理石工房)

 


 こういう具合いの、つまりはよりよき芸術のため、悪魔に魂を売り飛ばしでもしたかのような徒輩の噺は古今東西いくらでもある。


 日本にもある。


 幕末画壇の一巨魁、歌川国貞ですら必要に迫られればそれをした。「婦人賊に遇ふ」の図を依頼されたときの巷説だ。どれほど苦心惨憺しても筆の動きが捗らず、女の貌から白々しさを一掃できない問題に業を煮やした国貞は、とうとう一計を案じてのけた。


 行き先も告げずに外出し、夜になっても帰ってこない。


 当時の自然なたしなみとして、妻は寝もせず彼を待つ。


 ところがここに不幸が襲った。表戸が力任せにぶち破られて、覆面姿の強盗が、魔の如く押し入って来たのである。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210807170916j:plain

(『Ghost of Tsushima』より)

 


「…………」


 恐怖のあまり妻は全身を硬直させて、悲鳴を上げることすらできない。引き攣った喉からひゅーひゅーと、素人が吹く笛みたく、かすれきった音が漏れた。


 その様子を強盗は瞬きもせず見届けて、やがて覆面を剥ぎ取ると、こはいかに。現われたのは亭主国貞の顔ではないか。


(あっ)


 緊張が一度にほどかれて、あふれだした激情のまま妻はぼろぼろ泣き出した。


 国貞が傑作を描き上げたこと、言うまでもない。

 


「芸術は人格の反映だと云はれる。人格上に欠陥のある人の芸術は、結局、欠陥ある芸術であって、決してより長き声価を保つことは出来ないと云はれてゐる。私はこの俗論を嘲笑せずにはゐられない。私の見るところによれば、どんな背徳の人間でも芸術家たり得るであらう。否、背徳の人間であるといふことが、芸術家として強味となる場合がないとは限らない」

 


 大胆な観察を行ったのは生田春月。この常人の五十倍も繊細な神経を宿す男は続けざま、

 


「私は多年所謂文学者といはれる人々の生活を見て来た。そして彼等の人物と生活とには世間の普通の俗人や無智な人達の生活よりも一層悪いものの存することを知った。彼等の中には人間として何等の価値なき卑劣な卑しむべき人間さへもある。然も彼等は文学者として全然価値なきものではない」

 


 このようなことを言い立てて、いよいよ自説を堅くした。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210807171828j:plain

(『アサシンクリード オデッセイ』より、エリュシオン)

 


 事実、春月は目撃している。


 地球が秘めるエネルギーの大解放――関東大震災の惨禍より、一ヶ月ほど経ってから。


 瓦礫の街と化した東京、灰を掻きとる人の姿がまだふんだんに見受けられる、その只中を詩吟仲間と徘徊したときのこと。


「諸君、これはどうだい」


 面子の一人がいったい何を思ったか、妙に明るい表情で弁じはじめた。――浮華に漲りきっていたあの東京が、今や見てみろ、火の洗礼を浴びせられ、嘘で固めた何もかも、面倒くさい一切が綺麗さっぱり無くなった。


「その清々しさよ」


 水垢離をとった行者のような屈託のなさで言うのである。


 この時点でもう唖然とするには十分なのに、この男は更なる暴走を用意していた。


 いったいどういう心理の作用に因るものか。無造作に陽物を取り出して、焼け跡に立小便を始めたのである。

 

 

Theosakamainichi-earthquakepictorialedition-1923-page9-crop

 (Wikipediaより、関東大震災による浅草での被害)

 


 不謹慎どころの騒ぎではない。


 人間の皮を被っただけの畜生ではあるまいか。


 しかもこういう奴に限って、いったん筆を執らせるや、青年の純情な心の襞を甘い感動でしめらせる、みごとな詩をつくるのだ。


 生田春月が「芸術に対する根本疑」を抱いたのも無理はない。

 


 ――女は皆女優である。男は唯その美しさに見とれてゐればいい。楽屋を覗くものは馬鹿だ。楽屋を人に見せるものは悪魔だ。

 


 生方敏郎の毒舌も、このテーマとは親和性が高そうである。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

迷信百科 ―明治十二年のコレラ一揆―

 

 明治十二年八月というから、ざっと百四十年溯った今日あたり。


 埼玉県北足立郡新郷村が、にわかに爆ぜた。目を怒らせた住民どもが竹槍を手に筵旗を押し立てて――つまりは伝統的な百姓一揆の作法にのっとり、鬨の声を上げながら、警官隊と一大衝突を演じたのである。


 世に云うコレラ一揆のはじまりだった。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210805170435j:plain

(埼玉県志木町の市場)

 


「馬鹿馬鹿しくてお話にもならない騒動ですよ」


 東京日日新聞浦和支局長、北条清一の取材に対し、苦笑交じりに返答したのは押田庄之助なる白髪あたまの大じじい。安政二年に産声を上げ、以来七十九年間、土地に寄り添い生きてきた。その経歴には新郷村の村長職も含まれるから、まず長老株といっていい。


 コレラ一揆にもむろんのこと際会し、そのとき彼は二十五歳の若者だった。


 名前が示すそのままに、発端は疫病の流行である。


 油屋のご隠居がまず死んだ。


 これはコレラに因るものではなく、単に寿命が尽きての大往生であったらしい。しめやかに法事が営まれて、しかしながらその席でふるまわれた馳走というのがまずかった。


 暑さで傷んでいたのだろうか、とにかくコレラ菌の温床と化していたのは確かなようで。その料理番と近所や親戚の人々が、相次いで発症しはじめた。


 そこから先は、ドミノ倒しも同然である。

 


「きのふ担がれてゆく病人を見てゐた人が、けふは担がれてゆくといふ有様で、県からの防疫官が何人も出動し、草加警察からは脚絆わらぢがけの署長さん以下何十人もの警官が来る。そして傑伝寺を本部に、患者の治療と防疫にあたった物々しさ。健康なものも缶詰になり、家といふ家は縄張りして、一歩も出ることが出来なかった。様子が少しでも変だと、どんどん連れてゆかれる。患者の収容所は全棟寺で、毎日二人、三人づつバタバタ死んで行く。全棟寺裏山では大穴を掘って患者を出した家の家財道具を焼き、燻ってゐる煙が絶えず立ち上って、今思ひ出すだにぞッとしますよ」(『武州このごろ記』174~175頁)

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210805170336j:plain

(武蔵野の桑畑)

 


 八十間際の老体にも拘らず、押田庄之助の語り口は明晰だった。


 物事の順序も整然として、いささかの矛盾撞着もみられない。田舎の葦のあいだには、ときにこういう人物がいる。


 ――そのうちに妙な噂が流れはじめた。


 と、追憶はいよいよ事態の中核、蜂起の瞬間へと近付いてゆく。喋るにつれて当時の悲嘆・恐怖の念が身の裡によみがえって来たのであろう、老人の面上には鬼気さえ浮かび、記者の血の気をときに奪った。

 


「何でもコレラに事よせ、警察では矢鱈に民家の家財道具を持ち出して焼いてしまふ。病人もまだ息のあるものを埋めてしまふ。のみならず、匂ひのきつい薬や白い毒薬を家の中といはず外といはず、井戸の中まで撒き散らしてゆく。村のものを皆殺しにするのだ、警察官は我々の敵だ、殺されない中に警察官をやっつけてしまへ、防疫本部とかいふ傑伝寺も焼打ちしろ、といふのだった」(175頁)

 


「馬鹿馬鹿しくてお話にもならない」という押田翁の前置きは、謙遜でもなんでもなく、確かに的を射ていたようだ。


 一連の下りを読む限り、どうも村人たちの頭の中は、十余年前から半歩も進まず江戸時代に留まり続けていたらしい。斯様な没分暁漢わからずやの群れによって包囲され、万が一にも殺されてみよ。それこそなにがなんだかわからない、割に合わぬ死であろう。


 警官隊は緊張した。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210805170839j:plain

(大正末期の武蔵野台地

 


「集合場所の峰八幡に筵旗を押立てて集ったもの約二、三百。手に手に竹槍を持って警察官と対峙すること二日一晩、篝火を焚きわめきをあげ、喊声をあげる。家の中にゐても、夜の静けさの遠くから聞えたものですよ。
 その時の怪我人は、ちょいと思ひ出せませんが、こちらは百姓の集まり、忽ち警官隊に蹴散らされ、間もなく首謀者の検挙がはじまり、峰外二字の主立った区民が続々草加に挙げられ、気の毒に獄舎へ投げ込まれるものもあった。今考へて見ると、匂ひのきつい薬といふのは石炭酸水、白い毒薬といふのは石灰だったンで、患者の生埋めなんてことも飛んだ誤解で、要するに流言蜚語から起った騒動でしたよ(175~176頁)

 


 ここに真理がある。


 見えない敵を相手にする都合上、疫病との戦いは流言蜚語を極めて発生させやすい。そのことは、昨今コロナ禍をとりまいた大小さまざまな騒動で、十二分に証明されたことだろう。


 そういう観点からすれば、この事件――明治十二年のコレラ一揆が現代を写す鏡のようにも見えてくる。


「現代を写す鏡」といえば、蛇足を承知で付け加えたいモノがある。


 相次ぐ無謀な山行と、その必然の結果たる遭難事故に関連し、秩父自動車取締役・磯田正剛が発言した内容だ。

 


「私は、万一の場合を考慮して、先年警察側と連絡をとって登山口の各店舗の前へ、登山者の姓名、通過コース、日時を書いてくれるやうに掲示したことがありますが、厄介がってなかなか実行出来なかった」(266頁)

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210805171109j:plain

 


 昭和十年以前から、登山届は日本に存在していたらしい。


 さりとて当の登山者はこれを面倒くさがって、提出が捗らなかったというあたり、いよいよ現代そのままだ。


 人間というのはなんとまあ、今も昔も似たり寄ったりな懊悩に齷齪あくせくしているいきものか。


 一種遼遠な気さえする。

 

 

 

 

 

 
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

親バカ諭吉 ―「子供は先生のアキレス腱」―

 

 

昨夜炉辺談笑親
病床今日看酸辛
家門多福君休道
吾羨世間無子人

 


 福澤諭吉の詩である。


 書き下しは、

 

 

昨夜は炉辺に談笑親しかりし
病床に今日は酸辛を看る
家門多福なりと君いふをめよ
吾は羨む世間の子なき人を

 


 およそこのような具合いになるか。


 明治二十二年、長女「さと」が腸チフスで倒れた際に綴ったものだ。

 

 

Yukichi Fukuzawa

 (Wikipediaより、福澤諭吉・明治二十年ごろの肖像)

 


 和やかに談笑していた昨日の景色はどこへやら、娘はいまや病床から一歩も動けず、高熱を発し、生死の境に呻吟している。


 医師はきっと持ちこたえると診察したが、そんなことで綺麗さっぱり拭われるほど、福澤の心配は浅くなかった。


 自慢の思慮も叡智も何も、こなごなに砕けたといっていい。新日本の導き手を以って任じたこの人物も、我が子の前では一介の愚父に過ぎなかった。いっそみぐるしいまでの動顛ぶりが、最後の一節――「世間の子のない人々のことを、むしろ羨む。こんな思いを味わわずに済むのだから」との部分に於いて、もろに浮き彫りにされている。


 全体的に荒削りな印象で、よほどあわただしく書きつけたことが透けて見え、正視するには痛ましすぎる気もしよう。


 寝食を忘れた父母の看護あってだろうか。幸い「さと」は峠を乗り越え、やがて健康を快復させた。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210803170354j:plain

 


 もう一つある。


 福澤諭吉の、親バカぶりから編み出された漢詩は、だ。


 明治十六年入梅の候、長男次男を洋行修業に送り出した際のこと。居並ぶ二人の息子に向かって


「修学中、日本で何が起きたとしてもわしの命がない限りは帰ってくるな。たとえ家族が病気と聞いても、狼狽して腰を浮かすことなかれ」


 と、いかにも厳父めかしく激励しておきながら、いざ船が出航する段ともなるとこの男は俄然情感を刺激され、

 

 

月色水声遶夢辺
起看窓外夜凄然
烟波万里孤舟裡

二子今宵眠不眠

 


 斯くの如く、繊細極まる詩を作ってはひとり慰めた形跡がある。

 

 

月色水声夢辺を遶る
起きて窓外を看れば夜凄然
烟波万里孤舟の裡に
二子今宵眠るや眠らざるや

 


 と、書き下せばいいらしい。


「二子」はどうだか知らないが、福澤諭吉自身はこの日、とてものこと寝つけなかったに相違ない。

 

 

KanrinMaru

Wikipediaより、咸臨丸難航の図) 

 


 実際問題、福澤は、後に慶應義塾じぶんのところの塾生に、


コーネル大学に留学した長男が日本人ひとりっきりで淋しがってるようだから、君もひとつ渡米して、コーネルに入ってくれないか。なんなら君の兄弟でもいい」


 こんな横着極まる意味の手紙を送るほど、我が子のことを心配していた。


 親心の発露といえば聞こえはいいが、受け取る側にしてみれば、さだめしいい面の皮であったろう。


 福澤諭吉は我が子をまったく溺愛し、目の中に入れても痛くないと正気で言わんばかりであった。


 幼少期、福澤邸に厄介になった経歴をもつ小泉信三その人でさえ、「子供は先生のアキレス腱」と指摘せずにはいられなかったほどである。――「福澤門下の人間としては少しいい憎いが、先生はわが子を思うとともに、しばしばわが子のことのみ思う嫌いもあった」「児孫の愛に、時としては溺れたといえる福澤先生にとり、何よりの幸福は、その四人の息子、五人の娘がみな健かで、先生の後に残ったことである」

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210803170809j:plain

コーネル大学

 


 しかしながらそのことで、福澤の価値は下落しない。


 むしろ上向く。


 三島由紀夫はその名著、『不道徳教育講座』の中で、


 ――絶対の強者は面白くないという考えが誰にもある。


 と喝破した。


 人間、一つや二つぐらい、わかりやすい急所を持ち合わせていた方が、愛されやすいということだ。


 蓋し至言であったろう。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

浪漫の宝庫、埼玉県 ―陛下の乳母の日記帳―

 

 関ヶ原の戦勝に天下を掴んだ家康は、そののち思うところあり、氷川神社に神輿を奉納したという。


 直筆の願文を、そっと中に納めて、だ。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210801170231j:plain

(家康直筆、剣法伝授起請文)

 


 国家安泰を念ずる内容だったというが、真実ほんとうのところはわからない。


 ――みだりに開けば、目がつぶれる。


 人々は正気でそう信じ、権現様の霊威を前にただひたすらに恐れ入り、敢えて触れようとするものは、徳川三百年の全期を通してただの一人もなかったからだ。


 幕府瓦解後も、暫くの間はこの畏怖の心が生きていた。


 生きていたどころの騒ぎではない。


 ――もうよろしかろう。


 一つの史実として、家康がどんな文章を書いたか確かめようと。


 調査が認められたのは、明治・大正の御代も過ぎ、昭和に入ってからというから「信仰」の威力は凄まじい。当の徳川家康自身、この結果には驚いたのではなかろうか。

 

  

Front shrine of the Hikawa shrine

Wikipediaより、氷川神社) 

 


 仰々しい儀式を経て、開かずの扉が開かれる。


 しかし参集した人々は、盛大な肩透かしを喰らわされる憂き目に遭った。


 なかったのである。


 家康が納めたという願文は、神輿のどこをどう探しても影も形も見当たらなかった。


「おそらく維新の騒ぎに紛れ、誰か幕府の役人あたりがこっそり取り出してしまったのでしょう」


 そう語ったのは当時の宮司有賀忠義。


 東京日日新聞浦和支局長、北条清一の取材に対する答えであった。


 文化的には損失だろう。痛惜に堪えないといっていい。


 しかし「失われた古文書」というこのフレーズの、妖しいまでの魅力ときたらどうだろう。否が応にも気分が湧き立つ。浪漫を感じて仕方ない。夜寝る前の布団の中で耽る妄想、天井の隅の暗がりに手前勝手に描く絵図。その顔料として、これ以上相応しい素材があるか。

 


f:id:Sanguine-vigore:20210801170537j:plain

(顔料を求める奴隷騎士の図)

 


 だいたい「氷川神社」と「家康」という、この取り合わせからしてなかなか乙なものではないか。氷川神社の祭神は、

 


 以上三柱。


 三貴神の一角という、喩えようもなく尊貴な生まれでありながら、その性情の荒々しさが災いし、高天原を追放された男に向かい、いま日ノ本に新しく覇道を敷いた武門の長がなにごとかを奉る。


 さても劇的な構図であった。


「失われた」ということが、却って想像の羽翼を伸ばす余地になる。ミロのヴィーナスやプラネット号と同じ原理だ。

 

 

Front approach of the Hikawa shrine

 (Wikipediaより、氷川神社表参道)

 


 埼玉県にはもうひとつ、無限の興味を掻き立てられる文書というのが存在している。


 すなわち「野口善子の日記帳」だ。


 この名を耳にしただけでピンと来る方もいるだろう。そう、昭和八年十二月二十三日にお生まれになった皇太子殿下――現在の上皇陛下の乳母を務めた女性である。


 以下、有賀忠義と同様に、やはり北条清一の記事から抜粋しよう。

 


 その時、かの女は婦人雑誌を読んでゐた。まあ、ようこそ、いらっしゃいませ――かの女とは、皇太子殿下の御乳人たりし野口善子さんである。
 ここは北埼玉郡幸手町野口節氏夫妻の住居応接間である。節君は、のれんの古い呉服屋の若旦那らしく、縞の着物に前垂を掛けてゐた。(中略)
「出仕する時には、お暇を利用して洋裁のお稽古、お琴のお稽古などもいたしたいと存じ、荷物にしてもアレもコレも持って上らうと存じたのですが、奉仕いたしますと心配でそれどころではございませんでした。出仕する前に県の方が、日記は毎日おつけなさいと申されたので、ずっとつけてをりましたが、今ではこれが私にとって、唯一の光栄ある記録となりました。時々にこの日記を出して読み返すとき、感激を覚へます。宅の子供がもう歩くやうになりましたので、畏れ多くはございますが、皇太子さまの御事どもが、特に思ひ出されます。昭和十年参内いたしました時、殿下に拝謁いたしまして、私といふものが御記憶のうちにあらせられ、お笑ひ遊ばしましたので、私は思はずしらず有難さに涙が出ました」(『武州このごろ記』62~64頁)

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210801171049j:plain

(野口善子さん)

 


 本書が刊行されたのは昭和十年七月十日。


 その後、激動する時勢の中で、彼女の日記はどういう運命を辿ったのだろう。


 現存しているのであれば、一目だけでも拝んでみたいところだが。いや、この願いが叶わずとても、せめて焼夷弾の火にだけは焼かれないでいて欲しい。

 

 

  

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ

 

夢の欠乏 ―かねて血を恐れたまえ―


 どうも近ごろ、夢を見ない。


 もしくは、見てもすぐに忘れてしまう。


 今朝方からしてそうだった。何か、長大なドラマの展開を目の当たりにした感じがするが、さてその詳細はというと、言葉に詰まらざるを得ぬ。


 唯一はっきり憶えているのは、『彼岸島』の主人公――不死身の男宮本明がだだっ広い草原で、ゴーレムの群れと戦っている情景だけだ。


 そのゴーレムというのも『ドラクエ』シリーズに出てくるような直線的なヤツでなく、もっとこう、曲線多めで丸みを帯びた、ずんぐりむっくりしている感じの、そう、『ダークソウル』で廃都イザリスに犇めいていたデーモン像にこそ近い。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210730170212j:plain

 


 いったいなんだってそんな奇天烈な取り合わせが実現したのか?


 惜しいかな、前後の脈絡は消失している。


 指でこめかみを揉みほぐしても、とっかかりさえ掴めない。


 これもまた、連日やまぬうだる・・・ような暑さの所為か。夏を呪う理由がまた増えた。どうしたって今の時期は思索に向かない。秋の訪れをただひたすらに念願す。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210730170755j:plain

 


 さて、せっかくこうして久方ぶりに夢日記を紐解いたのだ。


 もう少しなにごとかを書き加えたい衝動がある。


 私自身から捻り出すのが不可能ならば、古人の記述に依るまでだ。その昔、十九世紀ヨーロッパの一隅で。バウル・リヒテルなる碩学は「天才」と「夢遊病」との間に神秘的な繋がりを見出し、ほとんどメンシス学派を思わせる、高啓蒙な文を遺した。


 曰く、

 


 天才は多くの点に於て真の夢中遊行病者である。天才は其の青ざめた夢の中に、覚めてゐる時よりも遥かに遠方を見る事が出来る。そして真理の頂きに達するのである。幻想の世界が消えると共に、彼は卒然と絶壁から現実の谷間に墜落するのである。

 


 日本語訳は医学博士の佐多芳久


 大正時代の研究雑誌、『変態心理』に掲載された一節だ。


 青ざめた夢、青ざめた月、青ざめた血の空。むろん偶然の一致だろうが、しかしヤーナムの夜を彷徨い尽くした身にとって、これは戦慄するに足る。思考の瞳の実在を、つい信じたくなるではないか。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20210730170854j:plain

 


 あともうひとつ、木下邦子のインタビューにも触れておこう。


 彼女は福岡生まれの女流画家。大正十年、齢十七で上京し、和田三造の門下に入り腕を磨いたこの人は、あるとき『萬朝報』の記者に対して以下の如く説いている。

 


 私の芸術は全く夜の芸術です、私の画を描く時は決して外界の事象に刺戟されてではなくて、殆ど私の不思議な幻覚からばかり生れて来るのです、私は真夜中が好きです、物皆が寝静まった頃になると、私は虚空を見つめてからパレットを執ります、ある晩私は自分の心臓を描いてみました。それはそれは真赤ないゝ色でした。速い血液も其まゝに描写されたかのやうに思ひました。

 

 

Sanzo wada, vento del sud, 1907

 (Wikipediaより、和田三造の作品)

 


 眠りに落ちてはないものの、現実の輪郭がぼやけるような名状し難いあやしさを感じさせる文章な点、どうしても紹介したかった。


 エログロナンセンスが風靡した大正時代の雰囲気が、そこはかとなく伝わっても来るだろう。ああ、脳漿が素敵に揺れる。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ