笠間杲雄のペンは鋭い。
さえざえとした切り口で、現実を鮮やかにくり抜いてのける。
なにごとかを批評するに際しても、主題へのアプローチに態と迂遠な経路を使う――予防線を十重二十重に張り巡らせる目的で――ような真似はまずしない。劈頭一番、短刀を土手っ腹にぶち込むような、そういう直截な手段を好む。
外務省暮らしの最後を飾ったポルトガルを評すにも、
ポルトガル人といふのは、嘗て世界の半を領した輝かしい過去の追憶に今日でも生きてゐて、非常に感傷的で、現実から遠い夢幻や詩の世界を求める国民である。その歌も音楽も、華やかさの底に云ひ知れぬ憂鬱なものが流れてゐる。(『東西雑記帳』147頁)
斯くの如き遠慮会釈のなさだった。
この傾向は、笠間が夏目漱石の生徒であった事実とも、無関係ではないだろう。
(ポルトガルにて、葡萄の収穫)
旧制第一高校在学時代、三年生の間だけではあるものの。――笠間は確かに夏目漱石の薫陶を受け、その影響は知能ばかりに留まらず、人格面にも及ぶところ甚大だった。
…あの当時にはさうザラにない、今から考へるとロンドンの正銘まがふ方なきカットで、洋服がしっくり身体に合って居り、歯切れのいゝオクスフォード・アクセントを聞いたときには、敝衣破帽をスローガンにしてゐた荒っぽいクラス全員が魅せられてしまった。(中略)ユーモアが最高の皮肉であることも先生のお蔭で解るやうになった。(115頁)
卒業後も折に触れては牛込の邸宅に漱石を訪ね、胸に清風を吹き込んでもらっていたそうだから、まず「門下」と呼んで差し支えはないだろう。
自宅に於ける漱石は、よく和服姿で居たという。生地に絡んだ小さなゴミを、神経質に指先で弾き除ける有り様が、どういうわけか笠間の脳裡に強く印象付けられた。
そうして親炙するうちに、自然と文章の癖が
私の友人のSといふのが不眠症にかかり、夜は大抵読書するから拙著を一部呉れといふので、態々送ってやったら、数日後、貴著のお蔭で此頃は床に就くと直ぐ眠れるやうになったと礼状を寄越した。(130頁)
このあたりの下りなど、そのまま漱石の小説に登場しても違和感のない人間風景ではないか。
(小川千甕「夏目漱石逝く」)
――いや、しかし、それにしても。
昭和十一年に竣工した国会議事堂、今も変わらず東京都千代田区永田町に鎮座するあの建物を評するに、「西洋の拙劣な折衷混同」との言葉を用いて「余程趣味の悪い人の立案したものだらう」「せいぜい五流国家の議院」と糾弾し、挙句の果てには「国辱」の烙印を押したのは、ちょっと無遠慮の度を失し、やり過ぎに入った感がある。
検閲官が伏字処理をしなかったのを、むしろ奇怪に思いたい。
やはり官僚の
(Wikipediaより、議事堂竣工の記念切手)
笠間はまた、夏目漱石との遭遇にさきがけ、小泉八雲――ラフカディオ・ハーンに出逢ってもいる。
少年時代に寄宿していた旧藩時代の学塾が、たまたまハーンの家のそばだったのだ。
ごく単純な地理的関係から、笠間はしばしば、この「背が低く猫背で、殆んど盲目に近い程の強い近眼で歩行も不自由がちな、みすぼらしい」老外国人の散歩姿を目の当たりにし、異様な思いに駆られたという。
(いったい、どういう種類の男だ)
まるで見当がつかなかった。
いつか化けの皮を剥いでやろうと心に決めた。
少年らしい気負いこみであったろう。
それだけに、いざ「不審者」の正体がラフカディオ・ハーン――生半可な日本人など及びもつかない、日本文化の研究者にして発信者――と知った際の驚きぶりは物凄く、もう少しでひっくり返らんばかりであった。
私はその頃、先生のものを英語で読んで、解らぬ乍ら私かに敬慕の念を懐いてゐたもので、このうす汚い老外人が先生だと知ると
その頃先生は、誰でもが知ってゐる通り、欧米人の訪客は全然拒って會はれなかった。殊に宣教師などは大嫌ひだったらしい――すっかり日本化してゐたのだ。私は先生だと知ってからは、路で會ふ都度、二三回先生と言葉を交した。私の子供らしい片言まぢりの英語に、先生は微笑みながら、親切に応対してくれたことを今でもはっきり覚えて居る。(159頁)
さても幸運な男であった。
いやさまったく、人の縁に恵まれたといっていい。
あるいはそれこそ、外交官に最も大事な資質であるやもしれず。後半生の大成も、蓋し納得というものだ。
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