穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ラムネ漫談 ―できたて一本二銭なり―

 

 ラムネはいったい何故に美味いか。


 秘訣は瓶にこそ根ざす。


 初っ端から栓を抜かれて、グラスに注がれ運ばれてくるラムネなんぞはまったく無価値だ。あれほど馬鹿げた飲み物はない。せめて空き瓶を傍らに置き、視界に収めながらでなくば――。


 なかなか変態的な物言いである。


 こんなことを公共の場で力強く主張したのは、徳川夢声なる男。わが国マルチタレントの元祖たるべき存在で、「徳川」の二文字を冠するものの、権現様――旧将軍家の血筋とは、べつに何の繋がりもない。

 

 

Musei Tokugawa 1

 (Wikipediaより、徳川夢声

 


「あの形を見ろ、あの上半身の凸凹を」


 更にヒートアップして、夢声によるラムネ談議は続行される。

 


 口から段々太くなって下った所に、指で押したやうな軟かい窪みが、三ヶ所か四ヶ所、ぐるりと取巻いてゐて、その膨らみ切った直ぐ下に、左右から丸い棒で押しつけたやうな凹みがついてゐる。それから下は普通の円筒だが、これがまたどっしりした感じで、瓶全体に健康な女性の、――たとへて云へば、陽にやけた海女の肉体を思はせるやうな、剛毅なる艶めかしさがある。(昭和十六年『甘味』267頁)

 


 なるほど確かに言われてみれば、そんなような感じもしてくる。


 してみると川の流れに身を委ね、キンキンに冷やされている無数のラムネ瓶というのは、ひどく扇情的な光景になりはすまいか? カラカラと、栓をしていたビー玉が転がり奏でる軽やかな音、口の中で弾ける炭酸。数十年を経た今も、少年時代の思い出としてこれらの要素が色濃く脳裡に焼き付いている原因は、ひょっとするとこんなところに見出せるのか?


 まあ、それはいい。もう少しだけ、徳川夢声のラムネ論を傾聴しよう。

 

 

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 拘りの強烈なこの男にとり、生涯最高のラムネ体験。ぞくぞくするような刺戟を伴うその味わいは、炎熱厳しいインド洋を航行中の軍艦でこそ訪れた。

 


 昭和十二年の四月と六月、二回私は軍艦で印度洋を通過し、大いにラムネを楽しんだ。軍艦には立派なラムネ工場があり、冷蔵庫で冷やしたのが一本二銭である。
 摂氏三十幾度の酷熱に茹りつゝある時、士官(食堂兼社交室)でラムネを命ずると、水兵さんのボーイが、礼儀正しく盆に乗せて、私の前に持参する。私は、掌にヒヤリと来る瓶の感触を楽しみつゝゴクリとまづ一口、忽ち熱した食道を氷の棒が走る思ひだ。オレンヂ色のゴムの香りが微かに鼻をぬけるのも悪くない。(268頁)

 


 大日本帝国海軍に於いてラムネといえば、即座に大和が連想されるが、艦内にラムネ工場を蔵していたのは彼女のみでなかったようだ。


 大和の建造が始まったのは昭和十二年十一月四日より。夢声がインド洋に浮かんでいた時分には、影も形も存在しない。件の「軍艦」が大和でないのは明らかである。


 海軍のフネには、割とポピュラーな施設だったのではなかろうか。

 

 

Japanese battleship Yamato running trials off Bungo Strait, 20 October 1941

 (Wikipediaより、戦艦「大和」)

 


 ――それにしても。


 と、我と我が身を省みる。


 少年の日から幾星霜。ふと気がつけば酒を割るのにばかり使って、炭酸飲料そのものに舌鼓を打つ機会というのはめっきり少なくなってしまった。


 今年の夏は久方ぶりに童心に還って、ビー玉を押し込むのもいいかもしれない。慌てて噴きこぼさぬように、今のうちから留意しよう。

 

 

 

 

 


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昭和初頭の日葡関係 ―ポートワインを中心に―

 

 語り手が笠間杲雄でなかったら、きっと私は信じなかった。


 彼がポルトガル公使をやっていたころ、すなわち昭和十年前後。


 日葡間の関係はしかし、ワインの銘柄ひとつをめぐって寒風骨刺すツンドラ地帯の陽気並みに冷え込みきっていたなどと――鵜呑みにするには、あまりに話が面白すぎるではないか。


 肝心要のその銘柄は、もちろんポートワインであった。

 

 

Port wine

 (Wikipediaより、ポートワイン)

 


ポルトガルの宝石」の聴こえも高いこの酒自体に関しては、笠間の説明はあっさりしていて、

 


 葡萄酒であるが、むしろリキュールに近い強い酒で、世界でポルトガルの特産品になってゐる。
 オポルトといふ此国の名港の周囲数百キロに特殊の種の葡萄を植ゑて、数百日の日光の直射を受けて見事な実が成る。出来た酒は酒蔵に置く事十五年にして初めて飲めるといふ高級の品が真正のポートワインである。(昭和十六年発行『甘味』4~5頁)

 


 最低限、要点のみをかいつまんだ印象だ。


 続けて曰く、舌に乗せると自然な甘さが口全体に広がって、その醍醐味はまったく言外の沙汰なりと。


 発酵途中で77度のブランデーをぶち込むからこそ実現可能な特徴だった。


 この処理により酵母の働きを中断せしめ、通常よりも多くの糖をワインの中に残させる。高い度数と自然な甘さが実現される。原理自体は単純なれど、いざ実践の段ともなれば浅からぬ技量が求められるに違いない。そうでなければ当時に於いて一瓶三四十円という、この高価さが説明できない。

 

 

Porto Ribeira

 (Wikipediaより、オポルトの街)

 


 数百年の伝統を持つポートワインは当のポルトガル人にとっても「誇り」そのものであるらしく。合衆国やオーストラリアが類似品を作り出し、商品名に「ポートワイン」を含ませて廉く売り捌きはじめた日には、そりゃもう怒髪天を衝く勢いで激昂憤慨したらしい。


 だからこんな国策を、白昼堂々実現させる。

 


 ポルトガルは此の酒が国体の清華でもあるやうに、如何なる国との条約にもポートワインの商品名を外国では一切使用せぬ約束をしなければ、通商条約を結ばぬことにしてゐる。(5頁)

 


 ポートワインのブランド一つを守るためなら、極端な話、他の総ての貿易品を犠牲にしても厭わない。


 もはや狂気すら見え隠れする彼らの姿勢に、流石に当たるべからざるものを感得したのか。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア等々、先進国家は悉くこの協定にサインして、「世界には今ではポルトガル以外のポートワインは全く消滅した」


 ――ただ独り、大日本帝国を除いては。

 

 

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(『Witcher 3』より、愛とワインの都トゥサン)

 


 そう、わが国には明治四十年の昔から、赤玉ポートワインなる度数の高い甘いワインが存在し、人気を博し続けてきた。これが日本人の想像以上に、本場オポルトポルトガル人の神経をささくれ立たせていたらしい。


 彼らは自分たちの強腰が、断じて虚勢にあらざることを証明せねばならなかった。


 笠間杲雄は昭和十三年までポルトガル公使を務めたが、この間ついに「正式な通商条約が結べなかった」と慨嘆している。


 自身の懸命な外交努力を容易く打ち消す赤玉・白玉の存在に対して、好意を抱けようはずもなく。

 


 日本で最初に自称ポートワインを造った連中に、別に悪意のあったのでないことは彼等もよく知ってゐる。此の名は何の気なしに附けたので製造家の連中は、恐らく真正のポートワインを一滴も飲んだことのない人達であったに相違ない。併し結果から言ふと、日葡の国交を害してゐることになってゐる。(6頁)

 


 などと、だいぶ辛辣なことを書いている。


 更に竿頭一歩を進めて「公平に言ふと、何もポートの名を附けずとも、赤玉ワインとか白玉ワインとさへ云へば、今と少しも違はない商売上の効果はある筈で、恐らく間もなく改称するのであらう」と物語った笠間であったが、この展望が実現するのは実に三十年あまり先、戦後も久しい昭和四十八年に入ってからのことだった。

 

 

AKADAMA sweet wine poster

 (Wikipediaより、赤玉ポートワインのポスター、大正十一年撮影)

 


 ――と、ここまで書いて、ふと思い直す気になった。


 私は先にポートワインのブランドを守らんとするポルトガル人の執念を「狂気的」と表現したが、商標とは、文化とは、本来これぐらいの熱烈ぶりで擁護すべきモノではないか?


 つまり、どこぞの半島人に起源を主張されまくり、文化を、歴史を、伝統を、盗用されて汚辱の限りを尽くされようと平気の平左と澄ましていられる現代日本国民こそが異常・異様の極みであって。


 笠間杲雄が嫌というほど手古摺らされた、二十世紀ポルトガル人の態度こそ。文明国の国民としてあらまほしき姿なのではないのかと、そんな思考が湧いたのだ。

 

 

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 血圧が上がってきた。


 ここから先はワインでも呑みつつ、じっくり考えさせてもらう。


 地元で醸造されたのが、折よく手元に一本ある。

 

 

 

 

 

 
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「無敵の人」を如何にせむ ―情けは人の為ならず―

 

 明治から大正へ、元号が移り替わらんとしていた時分。


 東京市の一角で、菓子商人が殺された。


 犯人は、被害者の店の元職工。戦後恐慌――日露戦争で賠償金が取れなかったことに起因する、所謂明治四十年恐慌――の煽りを喰っての業績悪化に対処するため切られた首の一つであって、彼の働きそれ自体には、さほど問題もなかったらしい。

 

 

Treaty of Portsmouth

 (Wikipediaより、ポーツマス会議)

 


 暫く巷を彷徨したが、なにぶん地を這うような不景気の最中、再就職の糸口に、そう易々とありつけようはずもなく。


 いたずらに時間ばかりがただ流れ、生活はどんどん窮乏してゆく。なけなしの貯蓄も底を払った。もう限界だ、これ以上はとても耐えられそうにない。最後の望みは、やはり長年勤務した、嘗ての職場こそだった。


 元雇い主、すなわち件の菓子商人に面会を請い、幸いそれは許される。席に着くなり、自分が如何に追い詰められて苦しみ喘ぎ悩んでいるか、彼は赤裸々にぶちまけた。恥も外聞もとうにない。帰参の願いが叶うなら、彼は商人の靴の裏でも喜び勇んで舐めたろう。


 が、むなしかった。


 この状況、この世相で生き残りを賭け悶えているのは雇用者側も同様である。慈悲心を発動する余裕などとてものこと見当たらず、よしんば存在していても、こうして会って怨み言を聞いてやるまでが関の山であったろう。


 彼の希望は撥ねつけられた。


 と同時に、彼を縛る理性の一部が音を立てて砕けたらしい。


 数日後、夜陰に紛れて商人宅に忍び込み、荒れ狂う殺意の命ずるがまま凶器をずぶりと突き立てた――事件のあらましは、おおよそこんな具合であった。

 

 

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(Ghost of Tsushimaより)

 


 同じ時期、印刷会社を舞台にしても似たような事件が起きている。


 犯人はやはり解雇された元職工で、これまた帰参の願いが容れられず、逆上の結果その工場に放火したという次第。炎は大きく燃え上がり、隣の歯磨工場まで焼き、計五十万円の被害を出した。


 ――以上、どちらの例も江原素六が大正四年に世に著した、『通俗講和 浮世の重荷』に由っている。そう、貫通銃創を縄でシゴいて消毒した、旧幕臣の彼である。


 人生のすべてに絶望し、自爆的な凶行に奔る「無敵の人」はこの当時から居たわけだ。


 こういう手合いに対しては、「三四円の金を恵みて、温言以て彼を慰め、また励まして心機一転せしむる様にすること」が、江原一流の解法だった。(26頁)


 維新後キリスト教に傾倒した江原らしい、愛に満ちた見解だろう。実際問題、人をして窮鼠たらしめぬ工夫は重要だ。天地に腥風吹き荒れた戦国乱世の昔にあっても、名将と呼ばれる戦巧者は包囲の一部をわざと開け、敵に退路を示したという。


 完全に希望を絶ってしまえば、却って悉く死兵と化して、限界を超えた力を発揮し、五倍十倍の戦力差でもときに覆しかねないからだ。確か福本伸行も似たようなことを書いていた。

 


 たとえネズミでも 追いつめると思わぬ力を発揮する


 そうさせないためには 逃げ道を与えること


 ネズミは逃げ道があるかぎり闘わない 逃げることだけ考える………


 希望によってネズミは死ぬ……!


 闘う意志を失い無力となる……!

 

 

Bible in Numazu City Archives of Meiji History ac

 (Wikipediaより、江原素六愛用の聖書)

 


銀と金に登場する殺人鬼有賀の分析である。


 福本の最高傑作に同作を推す勢力が一定数存在するのも納得だ。


 情けは人の為ならず。うっかり道連れにされないように、一定の慈悲は常備しておくべきらしい。

 

 

銀と金 1

銀と金 1

Amazon

 

 

 


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夢路紀行抄 ―蘇生の代価―

 

 夢を見た。


 噛み殺される夢である。


 ここのところ、南洋関連の書籍を好んで読み漁った影響だろう。蛮煙瘴雨の人外境が、ものの見事に昨夜の夢寐に再現された。

 

 

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 私はそこで、何かしらの調査事業に携わっていたらしい。


 半球型のコテージまで建て、拠点とし、またずいぶんと力を入れていたようだ。


 中で準備を整えた。


 バックパックに機材を詰め込み、つば広帽を目深に被って外に出る。


 河があり、モーターボートが係留されて揺れていた。


 乗り込んで、手元のボタンを押し込むと運転手がやって来る。


 かなり年嵩の男であった。


 鼻梁が常人の三倍は高く、無毛の頭部とも相俟って、その風体はこれ以上なく独特であり、当分忘れられそうにない。


 彼は一言も発することなく、こちらに視線を向けもせず、ただ黙然と席に着く。


 エンジンがかかって、船は上流に進みはじめた。


 水は泥で濁りきり、底の様子を窺うなど思いもよらない。岸辺にはときどき火が揺らめいて、恰も紛争地帯に居るかの如き感を与えた。

 

 

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 やがて目的の桟橋に着く。


 一応礼を述べておいたが、やはり返事は皆無であった。


 獣道をしばらく進む。


 ふと気がつくと、前方わずか三~四メートルあたりの位置に大型の猫科動物がいて、四肢を踏ん張り、歯も剥き出しに、私を威嚇している最中であった。


 ジャガーか、ヒョウか、それともトラか。ライオンでないのは確かだが、そのあたりの見分けはちょっとつかない。


 彼、若しくは彼女の出現はまったく急で、ほとんど地面から湧き出たのかと錯覚したほどである。


 思考が凍った。よしんば回転を保てていても、既にどうにもならない間合いであった。獣の身体が膨張し、視界いっぱいに広がるのを、私はどこか他人事のように醒めた気持ちで見守っていた。


 衝撃。


 転倒。


 野生の本能とはこれであろうか。獣の牙は過たず、初撃で私の首筋に喰い込んでいた。


 痛みはない。


 ただ、違物感だけが強かった。


 目は色彩の判別を止め、風景は白と黒だけになり、そこから更に黒の面積が増えてゆく。


 死への墜落が始まったのだ。


 が、そのペースというのが、如何にも遅い。


 人間とは思ったよりもしぶといものだと、致命傷を負っていながらいざ死ぬまでにこんなに時間がかかるのか、どうせ希望のぞみなど欠片もないのに愚劣なことだと、無性に辟易したものだ。


 ――次に我を取り戻したとき、私は再び例の拠点の中にいて、ベッドに寝転び、湿度の高い重い空気を吸っていた。

 

 

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ニャミル椰子園にて、和田民治、仕留めた豹を抱きかかえ)

 


 夢だったのか? いいや否。私は確かに一度死に、そしてこうして復活したのだ。


 その証拠に、鏡を覗けばひとまわり若返った姿の私が。


 これが蘇生の代価であった。次があるのをいいことにほいほい死に続けようものならば、やがて乳幼児にまで回帰して、自分でベッドから起き上がれもしなくなり、リスポーン地点で餓死を迎える破目に至ろう。


 その次は受精卵まで溯るのか。どっちみち数秒と生きていられまい。次の次は、もう戻りようがない以上、消滅するのみであろう。


 よし、次こそはしくじらぬぞと頬を叩いて気合を入れて、そのあたりで目が覚めた。


 幼き日、近所の山で野犬と遭遇したあの瞬間の戦慄を、久方ぶりに想起した。

 

 

DARK SOULS III THE FIRE FADES EDITION - PS4

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南溟の悲愴 ―オランダ人の執拗さ―

 

 彼の運命は哀れをとどめた。


 ボルネオ島バンジャルマシンでビリヤード店を経営していた日本人の青年で、西荻にしおぎという、かなり珍しい姓を持つ。


 下の名前はわからない。


 いつもの通り、「某」の文字で代用しよう。


 さて、この西荻青年の店の扉を。


 大正四年の春の暮れ、四人の客が押し開けた。

 

 

Jalan Lambung Mangkurat Banjarmasin

 (Wikipediaより、バンジャルマシン)

 


 何れも同地駐屯のオランダ軍の下士官で、筋骨の逞しさは言うまでもない。彼らはときに歓声を上げ、ときに舌を激しく鳴らし、球の行方にいちいち一喜一憂し、芯からゲームを楽しみ尽くした。


 そこまではいい。ここはパリでもロンドンでもない、赤道直下の未開地だ。文明国とは自ずからマナーも異なろう。そのあたりの呼吸については西荻青年も十分呑み込み、口やかまし咎め立てたりなどしない。


 が、しかし、だからといって。


「お待ちください、お客様」


 越えてはならない一線というのは存在するのだ。


「お支払いがまだでございます」


 料金を踏み倒されるとあっては、流石に黙っていられなかった。


 まるでカウンターの西荻が、視界に映っていないが如く。オランダ人らは彼に一言の挨拶もなく、一文の銭も支払わずして、悪びれもせず堂々と、肩で風切り退店しようとしたのである。

 

 

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「おお、忘れておった」――と、頭を掻き掻きすっとぼけでもしていたならば、万事丸く収まったろう。


 ところが事実は反対で、注意を受けたオランダ人らは途端に激昂。口汚く罵りながら鉄拳をふるい、西荻を袋叩きにせんとした。


(あっ、やりやがったな)


 西荻とて、広い世界で自己の運命を開拓せんと野心を抱き、南半球のこんな場所まで好き好んでやって来た志士。鼻っ柱の強さにかけては前後に落ちぬ自負がある。


 このままリンチされ続けるのは堪忍ならぬところであった。


「寄るな、寄るんじゃねえ、この毛唐めら」


 殴られながらもどさくさ紛れにナイフを掴み、切っ先を鋭く光らせて、「けだものども」の牽制に努める。


 が、結局はこれが墓穴を掘った。


 兵士の一人が睨み合いから脱け出して、警官を引き連れ戻って来たのだ。むろん、この警官も一人残らず蘭人である。 


 形勢は不利、どころではない。潰滅的といっていい。勧告に従い、ナイフを捨てた西荻に対し、再び暴行が始まった。警官たちは止めるどころか、一緒になって殴る蹴るを繰り返す始末。


(畜生。……)


 この惨めさはどうであろう。必死の抵抗は事態を微塵も好転させず、地獄を更に深めただけに終止した。身も蓋もないこの現実を前にして否が応にも思い出すのは、昭和二十年八月十五日以降――敗戦直後の我が国に於ける惨状である。

 

 

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(昭和二十年九月八日、東京に進駐した米軍)

 


 西荻青年から見れば数十年後の未来に当たるあの時分にも、日本人は外国兵士にさんざ痛めつけられた。通りすがりにぶん殴られたり、橋から投げ落とされたりはまあ序の口で、マッカーサーが厚木に降り立った日、横須賀の民家に米兵二人が押し入り、主婦を犯した。
 翌日は日比谷公園で米兵が通行中の車をカージャックした。車から引き摺り降ろされたのは池田勇人前尾繁三郎ほかだった。
 その翌日、房総で出征兵の妻を米兵の集団が強姦し、同じ日、横浜の野毛山で二十四歳の女性が米兵に拉致され、彼らの宿舎で二十七人に暴行された。
 いずれも鶴見俊輔『廃墟の中から』による。同書には調達庁の調べとして占領期間中、毎年平均三百五十人の日本人が殺され、千人以上の婦女子が暴行されたとある」。(高山正之『日本よ、カダフィ大佐に学べ』35~36頁)


 無惨どころの騒ぎではない。


 言語道断の沙汰だった。


 祖国が骨まで蹂躙されるこの有り様を前にして、いつまでも虚無感に苛まれてはいられない。嘆く同胞を救わんと、勇猛心を奮い起こした日本人とて少なくなかった。


 そんな彼らに、占領者はどう答えたか。


 これがまたぞろ秀逸なのだ。

 


 友人のK記者は憲兵司令官に会見を申し込み、不法行為をする占領兵に対して、日本人は正当防衛権はあるか――というインタヴューをやったことがある。
 司令官の答えは、正当防衛権は無論ある。しかし、力を持っていなければかえって抵抗することは危険なのではあるまいか――という返答だったと話していた。(中略)この答えは理屈に合った答弁である。熊と、猫の間には、正当防衛権はあっても、まず猫が正当防衛権を行使しても勝味は少い。猫は、熊の影を踏まないように退散するのが安全をはかる道なのだ。(『秘録大東亜戦史 原爆・国内篇』118頁)

 

 

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(昭和二十八年の数寄屋橋。占領期間中、よく日本人が投げ落とされた)

 


 人間世界はどう足掻いても、何所まで行っても力の世界だ。


 大正四年のボルネオで西荻某を襲った事態も、結局はこの猫熊式と同一原理にあるだろう。


 抵抗する気力も失せたこの青年を、オランダ人らは警察署までひきずってゆき、更に暴行を加えいたぶり尽くした。


 一歩間違えば死んでいたろう。


 また、仮にそうなったとしても、加害者たちの心には虫が死んだほどの感慨も湧かなかったに違いない。


 後日、事件を知って仰天した同地の日本人会が知事に面会を申し込み、「本件は貴国の警官と兵卒共同して日本人を侮辱したるものなるに就き、充分取り調べの上公平なる処置あらんこと」を要求したが、当然の如く握りつぶされ、なんの功も奏さなかった。

 

 

Den Haag Binnenhof

 (Wikipediaより、オランダ、デン・ハーグの国会議事堂)

 


 顧みればオランダは、投降した日本兵に対しても随分酷烈な復讐裁判をやってのけた国だった。

 


 刑場で銃口の前に立つとき、正義の名に隠れて、不正義極まる戦争裁判をやってゐる和蘭国は、後五年以内に滅亡することを予言すると共に、吾々死刑者の霊魂は、その実現を見てから天国に昇るであらうと絶叫してやるつもりです。(『殉国憲兵の遺書』401頁)

 


 陸軍憲兵中尉浅木留次郎の遺書である。


 昭和二十三年九月二十三日、刑死。享年四十五歳。


 当時の日本軍人をしてここまでの内容を書かしむるとは、余程のことがあったのだろう。


 南溟に悲愴の種は尽きない。

 

 

日本人よ強かになれ 世界は邪悪な連中や国ばかり

日本人よ強かになれ 世界は邪悪な連中や国ばかり

  • 作者:高山 正之
  • 発売日: 2020/06/27
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チフス菌を団子に包め ―明治末期の殺鼠剤―


 流石に我が目を疑った。


 今からおよそ一世紀前、明治日本の農家では、ネズミ駆除のためチフスを利用していた――そんな記述を目の当たりにした際には、だ。


 青木信一農学博士が明治四十四年に世に著した、『通俗農業講話』中の発見である。


 そう、『天稲のサクナヒメ』購入時にわずかに触れたあの本だ。

 

 

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 野鼠をへらすものは、その同類の野鼠で、これは共喰をするからです、その他蛇もこれを捕るが、夜は、フクロウも捕ります。フクロウにこの鼠をとらせるには、細い竹をアーチ形に曲げて、畑の処々に立てておくのです。するとフクロウは、この竹の上に来て、番をしてゐて、鼠が、出口から出ると、チューともいはせずに捕ってしまひます。

 


 ここまでは穏当といっていい。が、

 


 鼠の蕃殖を防ぐもので、まだ一つ大切なものがあります。それはチフス病でして、人間には伝染しませんが、鼠には、非常に伝染するのです。人間は、えらいもので、このチフス菌を培養して、蕎麦団子にまぜ、これを例の出口の辺におく。それでこれを食った鼠は、みな病んで死ぬのです。(149~150頁)

 


 にわかに一転、この毒々しさはどうだろう。


 ――おいおい。


 と、思わず口に出していた。


 実際問題、ホウ酸団子どころではない物騒さである。


 当時に於ける本邦平均寿命の短さ、乳幼児夭折率の異様な高さ。その原因の一端を垣間覗き見た感がして、軽く眩暈さえしたものだ。

 

 

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「人には伝染しません」と、太鼓判を押してのけた青木博士には気の毒だが。チフス菌というのは人にもしっかり伝染し、食中毒を惹き起こす。主な症状は発熱、嘔吐、水下痢で、殊に熱に至っては、40℃の大台に達することも珍しくない。しかもその高熱が、少なくとも三日間に亘って続く。


 命を脅かされるには十分だろう。


 そんなものを培養し、一般人にも手軽に購入可能にし、蕎麦粉に包んで畑のあちこちに置いておく。


 げに恐るべき眺めであった。


 もっとも鼠チフスが人には伝染うつらないと信じていたのは、べつに日本人の独り決めでなく、ドイツに於いても同様で、「医学の本場」が既に然りである以上、仕方なくもあるのだが。

 

 

Fagopyrum esculentum field jp

Wikipediaより、開花時期の蕎麦畑) 

 


 鼠に限らず、本書に於いては虫害ないし病害のため――その説明と対策にかなりの紙面を割いている。その力の入り様を一瞥すれば、これらの要素が農家にとって如何に憎々しい敵か、おのずから読み取れようというものだ。


「除虫菊の粉と木灰を混ぜて振って置く」のは対ネキリムシの一法であり、農薬の雛型を透かし見るような感がして、こう、なにやら妙な趣深さが伝わって来もするだろう。

 

 

天穂のサクナヒメ 実演楽曲集 奏 ―かなで―

天穂のサクナヒメ 実演楽曲集 奏 ―かなで―

  • アーティスト:Various Artists
  • 発売日: 2021/05/12
  • メディア: CD
 

 

 

 


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瞑想と演説 ―最初の五分の使い方―


 何につけても出だし・・・というのは重要だ。


 演説の妙技は開幕直後の五分間にこそ尽される。


「私はお話をする前に、禅宗の法として五分間静坐を致します」


 釈宗演という僧の、これが決まり文句であった。

 

 

Soyen Shaku

 (Wikipediaより、釈宗演)

 


 冷静に考えればなんと横柄な註文だろう、客を馬鹿にするにもほどがある。そんな準備は登壇前に舞台裏で済ませておけというものだ。なにも態々、話聴きたさにやって来ている人間集団の目の前で、瞑想を実演る必要はない――。


 ところがいざ宗演が目蓋を下ろすと、そうした諸々の不満一切、喉の奥で行き場を失い、腹の底へとトンボ返りをした果てに、湯を注がれた海苔の如くほろほろと、他愛もなく解きほぐされる破目になる。


 ――まるで、一個の仏像に化身なられたような。


 そんな錯覚を惹き起こさずにはいられないほど、宗演の瞑想は練熟していた。


 みごとに自我が溶けだして、天地万物一切と瞑合を果たしてのけている。理屈を飛び越え、否応なしにわかるのだ。明治・大正屈指の高僧、日本の禅を世界に向かって発信した最初の男、臨済宗の至宝という触れ込みは、断じて看板倒れの誇大広告なんかではない。誰もがそれを覚らざるを得ないのである。

 

 

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 宗演の静謐な有り様がそのまま拡散したかのように。会場はいつしか秋の湖水を思わせる、凛とした沈黙に包まれる。


 五分が経つ。

 

て……」


 と宗演が話しはじめる。

 

 聴衆の心はもうそれだけで、粘膜を内側から擦りあげられるような激しい感動に噎び泣く。


 完璧だった。


 完璧な群集心理の形成である。


 最初の五分でまずこのように、聴き手の心を一纏めにしてガッチリ掌握できてこそ、「一流弁士」と讃えられる資格があろう。同時代では、大内青巒も似たような工夫を凝らしたものだ。彼の場合は、教育勅語の朗読だった。釈宗演には劣れども、一定の効果は見込めたらしい。

 

 

A copy of the Imperial Rescript on Education distributed to various schools in Japan by the Department of Education

 (Wikipediaより、教育勅語

 


 では反対に最初の五分、第一印象で失敗するとどうなるか?


 訊くだに愚問で、目もあてられないことになる。この点、誰より深く知っているのは保険の勧誘員こそだろう。

 


 話の切り出しが拙いと話の続きが甚だ悪くなったり、或は又後でどんなにもっともな話をした所で相手は初めに「否だ」と云ってしまった行懸り上、意地でも「否だ」を引込めない様になるから、此の辺は余程注意を必要とする。
 説明に移るときの心得は先方が「否だ」と返答する様な話を避け、漸次相手に質問させる様に仕向け、説明だと云ふことを気付かせないで説明して行くのに限るのである。

 


 富国徴兵保険相互会社二代目社長、吉田義輝がみずからの著書『勧誘と処世』したため置いた文である。


 彼自身、現役の頃は脚を棒にして駆けずり廻り、戸を叩いては何十、何百、何千人を口説き落とした猛者だった。

 

 

Fukoku Seimei Building (2018-05-04) 02

 (Wikipediaより、富国生命ビル)

 


 奇しくもこの見解は、第一線の心理学者とまったく軌を同じくしているものである。


 すなわち、

 


「一つの否定反応、即ち否という答は、最も撃砕し難い障碍である。一旦人がノーと云ったら、彼の全人格の誇りは彼をして飽くまでこれを固執させようとする。後になって彼はノーと云ったことを悔いるかもしれない。しかし彼には彼の誇るべき自己がある。一度拒んだ以上はどこまでもその拒んだ態度にしがみつこうとする。それであるから、我々が人に対した時、先ず最初に相手を肯定的方向に出発させることが大切なのである」

 


 という、ハリー・アレン・オーバーストリートの見解と。


 易々と掌をひっくり返せる、高橋是清みたようなのは本当に稀ということだ。

 

 

Korekiyo Takahashi with his grandchildren

 (Wikipediaより、孫たちとくつろぐ高橋)

 


 私も文章の出だしには、何より苦悩させられる。


 いつまで経っても、どんなに書いても、ちっとも楽になる気配がない。


 出だしなる哉、出だしなる哉――「出だし」がゲシュタルト崩壊しかけてきたので、このあたりで切り上げよう。

 

 

群衆心理 (講談社学術文庫)

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