ある日、牛が盗まれた。
ジャワ島東部、日本人和田民治が経営するニャミル椰子園に於いてである。
これが日本内地なら、迷わず警察に通報する一択だろう。一時間もせぬうちに附近の交番から巡査が駈けつけ、同情の意を表しながら現場検証に取り掛かってくれるはず。その程度の機能及び構造は、当時に於いて既に確立されていた。
が、ここはオランダの植民地、南洋遥かなジャワである。
この地を統治するオランダ人は、牛泥棒程度でいちいち真面目に動かない。理由は彼らの怠慢というより、政府の方針からしてそうなのだ。原住民同士の面倒は原住民同士でカタをつけろと言わんばかりに、村長に巨大な権限を投げつけ、事の処理を一任していた。
村長は警察権を具有し、部下の区長や区長の下に働く村役人を使って犯人の捜査、検挙、逮捕、監禁をすることができる。
村長には任期がなく、また、村会といったやうな機関もない。従って、一度選挙されると、所謂萬年村長で、百姓一揆でも起さない限り、村民の意志で辞職させるわけには行かないのである。(中略)だから、村長は敏腕家よりも人格者、学問はなくても徳望のある人物が選ばれる。(『蘭印生活二十年』23~24頁)
(蘭印総督府)
農園経営者に対しても、これとほぼ同等の権限が付与されていた。
「犯人の逮捕、監禁、捕縛、及び家宅捜索等の一部の警察権が与へられて」いたのである。
にも拘らず迂闊に警察を呼んだりすればどうなるか。怠慢は却ってこちらの方だと看做されかねない。自分の義務を果たそうともせず、
(こんな独立心のないやつが、事業で成功するわけがない)
どうせ
こんな態度の警官に捕まる犯人が居るのなら、そいつはよほど間の抜けた、服を逆さに着ても気付かぬような頓馬な奴に違いない。だから、
吾々の農園でも、隣の農園でも、随分牛泥棒に遭った。然し、吾々が主となって捜査検挙に努めない限り、警察の手で犯人を逮捕したことは一度も無いのである。(130頁)
まこと驚くべきことに、ジャワ島では二十世紀初頭に於いても自力救済の原理が遺憾なく適用されていた。
(ニャミル椰子園の事務所)
結局和田は信用の置ける幾名かの労働者を選出し、所謂「捜査チーム」を結成、自らは馬上の人となり、集落に対する大規模家宅捜索を指揮したというから、いよいよ時代的である。
甲斐あって、とある家の出刃包丁に濃厚な生肉の臭いがこびりついているのを発見。附近の藪を隈なく調べているうちに、とうとう水煮した大量の牛肉が発見される次第となった。
ここまで証拠が揃った以上、知らぬ存ぜぬは通らない。容疑の一家はほどなくして自白した。
この話はこれで一応、めでたしめでたしと相成るが――では、斯様に警察権を民間に委託する以上、オランダ人の警官とやらは何のために存在するのか? ただの単なる無駄飯喰らいの給料泥棒に過ぎないのではあるまいか? 当然発生するこの疑問についても一言しておかねばなるまい。
結論から言うと、上の批難は当たらない。彼らは彼らで、果たすべき重要な役がある。
共産主義者を地獄送りにすることだ。
赤色分子の跳梁跋扈を許さないという点に於いては、彼らはまったく人変りでもしたように、「実に峻烈であり真剣」になる。
ジャワには、野外巡査と云ふ、軍隊式に訓練され、小銃、ピストル等を持って自転車で駈け廻る一隊の警官がある。共産主義者の容疑者でも、農園に逃げ込んだとなるとオランダ人の指揮する六七名の野外巡査が早速やって来て、二日も三日も園内の村々を捜査する。苦力頭の協力を得て、新顔の苦力を一々点検するなぞ、なかなか厳重である。(132頁)
我が国における特高警察が、あるいは似ているかもしれない。
もっとも大日本帝国の場合、銃火器で武装しているのは専ら共産主義者の側であり、特高はほとんど徒手空拳でこれに立ち向かうことを余儀なくされたが。昭和三年十月二日、共産党の大物・三田村四郎が高木巡査部長の右こめかみに叩き込んだ弾丸は、当時に於いて最高水準の精巧さと謳われたドイツ軍器工場製十連発モーゼル銃から発射されたものだった。
手術の結果、高木巡査部長は辛うじて一命をとりとめはしたものの、後遺症は重大で、ほとんど廃人同然の姿と化してしまったという。
ジャワの野外巡査など、恵まれたものだ。彼らは身の危険を感じるや、すぐさま獲物をぶっ放し、事の解決を図ることができたのだから。
(Wikipediaより、三田村四郎)
投降した共産主義者に対しても、オランダ政府は日本ほど甘くなかった。
彼らを以って遇するに、特別な収容所を用意した。――ニューギニア島の遥か奥、ディグル河をずっとずっと遡行した果て、「タナメラ」と呼ばれる緑の魔境の真っ只中に。
此処は、全く蛮界の真中で周囲は幾百里と続く大森林、而も東南西の三方向は、ワニの沢山居る、二つの大河に挟まれた平坦な沖積土の森林地帯であるから、米、玉蜀黍、砂糖黍を始め、凡ての農作物が肥料なしに穫れる誠に有望な土地で、その上、北は遠くオランエ・ナッソー山脈に遮られ、犯人の絶対逃亡の途なき要害の地である。(132~133頁)
このタナメラに比べれば、たとえ網走監獄だろうと高級リゾートホテル程度に感ぜられるに違いない。
1926年だけでオランダは此処に800名以上の「革命家」を叩き込み、開墾作業に使用した。
斯くも徹底的な取り締まり体制が敷かれたお蔭で、和田民治はその二十年余に及ぶ現地生活の間じゅう、あの厄介な労働争議というものを滅多に視界に入れずに済んだ。
現在こころみにタナメラをグーグルマップで調べてみると、羊腸たるディグル河のほとりにタナ・メラ空港なるものが見いだせ、更にその周辺に目をやれば、スーパー・コンビニ・ショッピングモールにネットカフェと生活のための設備が整い、歴とした「街」として発展したのが確かめられる。
ただ、周囲の鬱蒼たる大森林を見る限り、相も変わらずワニの出没率は高そうだ。
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