穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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夢路紀行抄 ―はちあわせ―

 

 夢を見た。
 海に沈む夢である。
 といっても、別段海難事故に遭ったとか、そういう負の事情に依るのではない。ヒレだのゴーグルだのボンベだのと、きちんとダイビング用の装備を整え、万全を期した上でのことだ。

 

 その海域で発見された、新種の海洋生物を撮影することが目的だった。
 映像は、ドキュメンタリー番組の制作に使われるらしい。まあ金さえきちんと払ってくれればなんでもいいさと、私はその、エイとタコの合いの子みたような「新種」とやらの生態を撮影するのに勤しんだ。

 

 背筋に言いようのない圧迫感を覚えたのは、もう少しで十分な映像が集まるという時である。振り向くと、なんと、巨大なシャチの鼻先が、指呼の間にあるではないか。


 奇妙な虚脱がおとずれた。


 地上なら、へなへなと腰を抜かして崩れ落ちていただろう。
 ああ、駄目だなと直覚した。何が駄目なのか訊かれると詰まってしまうが、とにかく駄目だと分かったのだ。


 立ち向かおうなんて発想は微塵も湧いて来なかった。


 昔、近所の小山で野犬に遭遇したことがあるが、ああいう場合――こちらの息の根を絶つのに十分な能力を備えた生物と、檻越しではなく直接じかに対面した場合――冗談抜きで思考が凍る。
 その時は棒立ちになっている間に野犬の方がそっぽを向いて去ってくれたが、今度の夢でも同様の展開が待っていた。シャチは私なんぞより、もっと大きくて食いでのありそうな「新種」の方へと向かって行った。


 シャチのひと噛みで身体の三分の一以上を喪失する「新種」を尻目に、漸く金縛りから解放された私は、海面目指して一心不乱に水を掻いた。

 

 そこで目が醒めた。目を閉じると今もまだ、あの群青の世界に居る心地がする。

 

 

 

 


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