何につけても
演説の妙技は開幕直後の五分間にこそ尽される。
「私はお話をする前に、禅宗の法として五分間静坐を致します」
釈宗演という僧の、これが決まり文句であった。
(Wikipediaより、釈宗演)
冷静に考えればなんと横柄な註文だろう、客を馬鹿にするにもほどがある。そんな準備は登壇前に舞台裏で済ませておけというものだ。なにも態々、話聴きたさにやって来ている人間集団の目の前で、瞑想を
ところがいざ宗演が目蓋を下ろすと、そうした諸々の不満一切、喉の奥で行き場を失い、腹の底へとトンボ返りをした果てに、湯を注がれた海苔の如くほろほろと、他愛もなく解きほぐされる破目になる。
――まるで、一個の仏像に
そんな錯覚を惹き起こさずにはいられないほど、宗演の瞑想は練熟していた。
みごとに自我が溶けだして、天地万物一切と瞑合を果たしてのけている。理屈を飛び越え、否応なしにわかるのだ。明治・大正屈指の高僧、日本の禅を世界に向かって発信した最初の男、臨済宗の至宝という触れ込みは、断じて看板倒れの誇大広告なんかではない。誰もがそれを覚らざるを得ないのである。
宗演の静謐な有り様がそのまま拡散したかのように。会場はいつしか秋の湖水を思わせる、凛とした沈黙に包まれる。
五分が経つ。
「
と宗演が話しはじめる。
聴衆の心はもうそれだけで、粘膜を内側から擦りあげられるような激しい感動に噎び泣く。
完璧だった。
完璧な群集心理の形成である。
最初の五分でまずこのように、聴き手の心を一纏めにしてガッチリ掌握できてこそ、「一流弁士」と讃えられる資格があろう。同時代では、大内青巒も似たような工夫を凝らしたものだ。彼の場合は、教育勅語の朗読だった。釈宗演には劣れども、一定の効果は見込めたらしい。
では反対に最初の五分、第一印象で失敗するとどうなるか?
訊くだに愚問で、目もあてられないことになる。この点、誰より深く知っているのは保険の勧誘員こそだろう。
話の切り出しが拙いと話の続きが甚だ悪くなったり、或は又後でどんなにもっともな話をした所で相手は初めに「否だ」と云ってしまった行懸り上、意地でも「否だ」を引込めない様になるから、此の辺は余程注意を必要とする。
説明に移るときの心得は先方が「否だ」と返答する様な話を避け、漸次相手に質問させる様に仕向け、説明だと云ふことを気付かせないで説明して行くのに限るのである。
富国徴兵保険相互会社二代目社長、吉田義輝がみずからの著書『勧誘と処世』に
彼自身、現役の頃は脚を棒にして駆けずり廻り、戸を叩いては何十、何百、何千人を口説き落とした猛者だった。
奇しくもこの見解は、第一線の心理学者とまったく軌を同じくしているものである。
すなわち、
「一つの否定反応、即ち否という答は、最も撃砕し難い障碍である。一旦人がノーと云ったら、彼の全人格の誇りは彼をして飽くまでこれを固執させようとする。後になって彼はノーと云ったことを悔いるかもしれない。しかし彼には彼の誇るべき自己がある。一度拒んだ以上はどこまでもその拒んだ態度にしがみつこうとする。それであるから、我々が人に対した時、先ず最初に相手を肯定的方向に出発させることが大切なのである」
という、ハリー・アレン・オーバーストリートの見解と。
易々と掌をひっくり返せる、高橋是清みたようなのは本当に稀ということだ。
(Wikipediaより、孫たちとくつろぐ高橋)
私も文章の出だしには、何より苦悩させられる。
いつまで経っても、どんなに書いても、ちっとも楽になる気配がない。
出だしなる哉、出だしなる哉――「出だし」がゲシュタルト崩壊しかけてきたので、このあたりで切り上げよう。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓