明治から大正へ、元号が移り替わらんとしていた時分。
東京市の一角で、菓子商人が殺された。
犯人は、被害者の店の元職工。戦後恐慌――日露戦争で賠償金が取れなかったことに起因する、所謂明治四十年恐慌――の煽りを喰っての業績悪化に対処するため切られた首の一つであって、彼の働きそれ自体には、さほど問題もなかったらしい。
暫く巷を彷徨したが、なにぶん地を這うような不景気の最中、再就職の糸口に、そう易々とありつけようはずもなく。
いたずらに時間ばかりがただ流れ、生活はどんどん窮乏してゆく。なけなしの貯蓄も底を払った。もう限界だ、これ以上はとても耐えられそうにない。最後の望みは、やはり長年勤務した、嘗ての職場こそだった。
元雇い主、すなわち件の菓子商人に面会を請い、幸いそれは許される。席に着くなり、自分が如何に追い詰められて苦しみ喘ぎ悩んでいるか、彼は赤裸々にぶちまけた。恥も外聞もとうにない。帰参の願いが叶うなら、彼は商人の靴の裏でも喜び勇んで舐めたろう。
が、むなしかった。
この状況、この世相で生き残りを賭け悶えているのは雇用者側も同様である。慈悲心を発動する余裕などとてものこと見当たらず、よしんば存在していても、こうして会って怨み言を聞いてやるまでが関の山であったろう。
彼の希望は撥ねつけられた。
と同時に、彼を縛る理性の一部が音を立てて砕けたらしい。
数日後、夜陰に紛れて商人宅に忍び込み、荒れ狂う殺意の命ずるがまま凶器をずぶりと突き立てた――事件のあらましは、おおよそこんな具合であった。
(Ghost of Tsushimaより)
同じ時期、印刷会社を舞台にしても似たような事件が起きている。
犯人はやはり解雇された元職工で、これまた帰参の願いが容れられず、逆上の結果その工場に放火したという次第。炎は大きく燃え上がり、隣の歯磨工場まで焼き、計五十万円の被害を出した。
――以上、どちらの例も江原素六が大正四年に世に著した、『通俗講和 浮世の重荷』に由っている。そう、貫通銃創を縄でシゴいて消毒した、旧幕臣の彼である。
人生のすべてに絶望し、自爆的な凶行に奔る「無敵の人」はこの当時から居たわけだ。
こういう手合いに対しては、「三四円の金を恵みて、温言以て彼を慰め、また励まして心機一転せしむる様にすること」が、江原一流の解法だった。(26頁)
維新後キリスト教に傾倒した江原らしい、愛に満ちた見解だろう。実際問題、人をして窮鼠たらしめぬ工夫は重要だ。天地に腥風吹き荒れた戦国乱世の昔にあっても、名将と呼ばれる戦巧者は包囲の一部をわざと開け、敵に退路を示したという。
完全に希望を絶ってしまえば、却って悉く死兵と化して、限界を超えた力を発揮し、五倍十倍の戦力差でもときに覆しかねないからだ。確か福本伸行も似たようなことを書いていた。
たとえネズミでも 追いつめると思わぬ力を発揮する
そうさせないためには 逃げ道を与えること
ネズミは逃げ道があるかぎり闘わない 逃げることだけ考える………
希望によってネズミは死ぬ……!
闘う意志を失い無力となる……!
『銀と金』に登場する殺人鬼有賀の分析である。
福本の最高傑作に同作を推す勢力が一定数存在するのも納得だ。
情けは人の為ならず。うっかり道連れにされないように、一定の慈悲は常備しておくべきらしい。
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