筆跡に価値を見出す手合いは多い。
古くから後を絶たないといってよかろう。古本なども著者のサインが有るか無いかで、値段に天と地ほどの隔たりが生まれる。
著名人の表札なども、よくこうした好事家たちの興味の対象として上がったものだ。
樋口一葉の日記、『水のうへ』には次のような一節がある。
夜にまぐれてわが書きつる門標ぬすみて逃ぐるもあり、雑誌社にはわが書きたる原稿紙一枚もとどめずとぞいふなる、そは何がしくれがしの学生こぞりて貰ひに来る成りとか、(『一葉日記集 下巻』174頁)
明治二十九年一月の
樋口一葉の文章は、日記にさえもなにか独特の嫋やかさが満ちている。
いっそ色気と呼ぶべきか。読んでいて、ふと血のくるめきを感じたほどだ。当時の学生諸君が先を争って出版社に詰めかけて、彼女の生原稿を欲しがったのも頷けよう。
昨年度、東京都内のオークションに『たけくらべ』の原稿が出品されるや2100万円の高値が付いたと耳にするが、「夜にまぐれて」盗まれた門標には、さて幾らの値が付くか、ちょっと興味をそそられる。
一葉から十余年を経た明治四十年前後――。
今度は海軍大将東郷平八郎の表札が盗難に遭う破目になる。
(東郷平八郎と安部真造)
それも「盗み」のペースは一葉のそれよりよほど激しく、同じ表札が一週間とかかっているのは稀であったと、当時の新聞に掲載されたほどだった。
徳川家康の作と云われる、
の五・七・五を座右の銘に掲げていた元帥も、流石にこればっかりは閉口した。
旧幕時代、「書役」即ち書記として薩摩藩に出仕していた都合上、字を書く行為それ自体には別段の苦痛も覚えなかった東郷であるが、堂々巡りの徒労感は否めない。そこでとうとう自分で筆を揮うのをやめ、誰か別の者に書かせたところ、盗難騒ぎはぴたりと止んだ。
「実に相手も敏感なものだ」
なかなか見る目があるじゃあないかと、小笠原長生は『鉄桜漫談』中にてからかうように述べている。
(伊東にある東郷平八郎の別荘)
樋口一葉。
両名の表札を盗んだ連中は、彼らを熱愛するあまりついその迸りを抑えかね、衝動的に犯行に及んだ、いわば重度のファンだった。
盗品は密かに私蔵され、ひょっとすると戦火を逃れて、未だ何処かの蔵の中に眠っているのやもしれぬ。
しかしながら大正の初頭、横山大観の表札を盗んだ連中は違う。この近代日本画壇の巨匠もまた、表札の盗難被害に晒された一人であった。
高田義一郎の『らく我記』によれば、その頻度は六年間に八回というもの。東郷平八郎に比すれば遥かにマシと言っていいが、それでも盗まれる度ごとに、新しく書き替えねばならぬ苦労は厄介で仕方なかったらしい。
ある日、そのことを出入りの道具屋に愚痴ってみると、蛇の道は蛇と言うべきか。道具屋は途端に口の端を三日月形に吊り上げて、大観が思いもよらない裏事情を説明しだした。
「先生! それは盗まれるのがあたり前ですよ。先生のご自慢の表札を落款にして、先生の偽物を作るために、先生の表札を盗んで、そっくりそのまま木板にするのです。道理で、先生の偽物が多いこと、非常なもんです。へへへへへ」(502頁)
さしもの大観も、これには開いた口が塞がらなくなったという。
(横山大観『雨霽る』)
詐欺という、より大きな犯罪に資するための表札盗み。この点に於いて、明らかに前二例とはその趣を異にする。
胸糞の悪くなった大観は、いっそのこと表札を出すのを止めてしまおうかとも思ったが、いざ試してみると想像以上の不便さがあり、やむを得ず東郷と同じ対処法に行き着いた。
他人の筆を借りたのである。
伊豆の修善寺の住職に頼み、わざわざ本名の「横山秀麿」で一筆書いてもらったというわけだ。
それで漸く、煩わしさから解放された。
盗っ人たちが筆跡の違いを見分けたのか、それとも「秀麿」では世を欺く落款に出来ないからか。真相は永久に分からない。
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