昭和八年をほとんどまるごと費やして南溟の国々を行脚した、一連の旅を東恩納寛惇は、以下の如く総括している。
私の一年に亙る旅行の目的は、日本を中心とする東亜諸民族の過去の足跡を辿る事にあった。然るに、それ等の足跡は、最近二三百年の間に、欧米人の大きな靴の跡に悉く踏みにじられて了って、今ではその
彼がジャワで目撃した光景は、まさにそうした「白人による蹂躙」の代表たるべきものだったろう。
スマトラとバリ島の間に東西に長く横たわり、現在ではインドネシアの首都が置かれてもいるこの大島。
ユーラシアプレートにインド・オーストラリアプレートが潜り込むスンダ海溝を南にひかえ、その都合上地震が多発し火山も多いこの地には、他に類を見ない一種異様なシンボルがある。
「じゃがたら首」と称される、生首のセメント固めがすなわち
この首の本来の持ち主は、ピーター・エルベルフェルトなる男。現地の女とドイツ系の男の間に生を享けた混血で、1722年4月7日、オランダ植民地政府の転覆を企てた廉で断罪された。
その処刑は酸鼻を窮め、彼と彼の同志19名は生きながらにして地獄の責め苦を背負わされ、死への道程をむごたらしく歩かされたと伝わっている。
心臓の停止は、彼らにとってむしろ救いですらあったろう。
にも拘らず、オランダ人達はなおも腹の虫がおさまらなかったものと見え、ついには死体の凌辱というあからさまな禁忌にまで手を出した。
白人が有色人種をヒトと看做していなかった歴史を、よく象徴した事件であろう。
ピーターの首が据え付けられた石碑には銅板が嵌め込まれており、態々オランダ語とジャワ語とで同一文が刻まれている。その文章を、東恩納は以下の如く和訳した。
一七二二年四月十四日
ジャワ島にはもう一つ、東恩納の脳裏にあざやかに印象されたものがある。
バタビアの街の入口に転がっていた、旧い一門の大砲だ。
由来については、誰も知らない。よほど古くから放置されているものらしく、砲身は半ば地面に埋もれ、砲尾だけが控えめに半分露出している。
いつからか、現地民がピーター・エルベルフェルトを偲ぶ際には、この大砲に香華を手向けるのがならわしとなった。
物語まで生まれた。古老の語ったところによれば、この大砲は元々雌雄対として存在していたものであったが、あるとき不幸が襲って以来、その絆は引き裂かれ、二門は離れ離れになってしまった。
あるべきところにあるべきものがない。実にこれこそ、ジャワの不幸の源である。
しかし心配は要らない、いつか星が正しく巡れば、この大砲にも再びつがいと寄り添える日がやってくる。而して実にその日こそ、永きに亘ったオランダの覊絆が断ち切られ、自由と幸福が齎される
鰯の頭もなんとやら、南半球まで場所を移せば妙なモノが信仰対象になるものである。
夢のやうな望みに繋がれて、不思議な古砲の前には、今も香花の絶えた事がない。(401頁)
東恩納の文章からは、若干の痛ましさが伝わってくる。
砲尾にラテン語で「Ex me ipsa renata sum」――「私自身から、私は生まれた」と刻印されたこの大砲は、その後地中から掘り起こされて、ジャカルタ歴史博物館に展示される運びとなった。
2020年現在も、彼はつがいと再会できないままである。
一方、ピーター・エルベルフェルトの首はと言うと、1942年、この地からオランダを追っ払い、新たに進駐して来た大日本帝国の働きによって、一度は地上から姿を消した。
同年4月28日付で厳粛な撤去式が営まれたと記録にある。東恩納がジャワ島に足を踏み入れてから、わずか9年後の出来事だった。
が、大日本帝国の敗戦後。この地の再植民地化を目論み、舞い戻ってきたオランダの手でピーターの頭蓋は再び引っ張り出される破目となる。
「交通の妨げとなる」という理由から場所こそ移されはしたものの、「じゃがたら首」は今も槍に貫かれたまま、むなしく宙を睨んでいるのだ。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
↓ ↓ ↓